神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世(2)
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1309年にはスイスの1部を領有し、翌年には息子ヨハンとボヘミア王(ハンガリーとポーランドの王も兼ねた)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカとの縁組の結果、ボヘミア王位を自家に獲得するなど、一族の勢力を短期間のうちに拡大させ、ルクセンブルク家は一躍神聖ローマ帝国における最有力の勢力となった。
ハインリヒ7世はさらに、皇帝戴冠式を行うためローマへと向かう。しかし皇帝の侵入によりイタリアの内乱はたちまち激化し、ローマに辿り着くまでには2年という時間を要した。しかもアヴィニョンの教皇はローマに姿を現すことはなく、しかたなくハインリヒは枢機卿から帝冠を受けることとなった。
フリードリヒ2世の長男ハインリヒ7世も教皇と皇帝の争いの犠牲者です。ハインリヒ7世は皇帝である父と離れて暮らし、意見の対立がありました。それでも教皇にそそのかされるということがなければ反乱を起こしたりはしなかったと思います。教皇は聖職者としての本来の役割を忘れ、世俗の権力を求めるようになりました。ハインリヒ7世の生涯は痛ましいもので、そうなった原因は教皇と皇帝の争いにありました。そしてフリードリヒ2世が亡くなり、ホーエンシュタウフェン家が滅亡しても、イタリアの都市での争いは続いていました。
葬儀は1313年9月2日、日曜日にピサ大聖堂で営まれ、同日埋葬されたが、後に石棺は近隣のカンポサントに移された。しかし、ダンテ没後600年記念の1921年に、当時イタリアの文部大臣であった哲学者・歴史学者ベネデット・クローチェは、石棺をピサの大聖堂に戻した。