ボードゥアン3世(6)
文字数 837文字
エルサレム王国が内部分裂していたころ、シリアの支配者ヌールッディーンは新しく占領したダマスカスの併合・統治力の強化に奔走していた。王国北方は強力な1人の支配者によって統合されつつあったため、十字軍は南方のエジプト地域への勢力拡大を推し進めた。当時のエジプトでは、幼い支配者が連続して即位したことにより内戦状態に陥っていたためである。1150年頃、ボードゥアン3世はガザの防備を固め、近辺に存在したファーティマ朝が占領するアスカロンの要塞に対する備えとし、1153年にはアスカロン砦そのものを攻め落とした。アスカロンを落としたことにより、王国南部とエジプトとの国境付近の安定化に成功したが、ファーティマ朝のエルサレム王国への積極的な侵攻遠征を誘発する原因にもなった。アスカロンはアモーリーの領有するヤッファ伯国に編入され、ヤッファ・アスカロン伯国となった。1152年には、北シリア地方から侵攻したムスリム王朝の軍勢を撃破し、追い返した。
1156年、ボードゥアン3世はヌールッディーンとの平和条約の締結を強いられた。しかし1157年(1158年)冬、ボードゥアンは条約を無視してヌールッディーン支配下のシリアに侵攻を開始し、シャイザールを包囲した。しかしシャイザールの領有権を巡り十字軍内でフランドル伯ティエリーとルノー・ド・シャティヨンが対立したことを受けて撤退に追い込まれた。しかしこの遠征で、ボードゥアンはかつてアンティオキア公国がハリム地域の奪還に成功し、また1158年にはヌールッディーンの撃破にも成功した。