ブルターニュ公ジャン1世
文字数 1,166文字
ブルターニュの歴史は長いのですが、ブルターニュ公ジャン1世から見ていきます。作品集は下の画像から入ってください。
ジャン1世(1219年ー1286年)はブルターニュ公。ジャン1世・ル・ルー(赤髭のジャン1世)とも呼ばれたブルターニュ摂政ピエール・モークレールと女公アリックスの長男。
フランスは見た目であだ名をつけることが多いですね。
1221年、母アリックスの死によってブルターニュ公位を継承したが、幼児であったため父ピエールが摂政となった。ピエール・モークレールがブルターニュの男爵たちの叛乱を抑えた1232年から親政を開始した。1237年には家臣の一人であったピエール・ド・クランの叛乱を鎮圧している。1242年、ルイ聖王にかわってポワトゥーで戦い、ラ・マルシュ伯を従わせた。
君主が幼かったり力が無いとわかれば、すぐに叛乱が起きてしまうのですね。そして大人になって力を見せれば叛乱は無くなる、どこの国も同じです。隙を見せれば奪われるのです。
1236年、ナバラ王テオバルド1世(シャンパーニュ伯としてはティボー1世)の王女ブランカ(ブランシュ・ド・ナヴァール)と結婚し、ナバラ王国の後継者とみなされた。
1240年にはブルターニュからユダヤ人を追放した。
1254年に最終的に、年3000リーブルの金と引き換えに、妻の実弟テオバルド2世が王位を継承することに同意し、ナバラ王位をあきらめた。
ジャン1世は多くのブルターニュ貴族や聖職者たちと争った。彼はナント司教と対立関係にあり、ブルターニュの司教から破門されたが、すぐに司教を従わせた。しかし貴族たちは、1257年に順番に武装蜂起して聖職者側についた。ジャン1世は最終的に彼らを抑え込んだ。
君主と聖職者が対立するというのはよくあることなのでしょうか?ブルターニュでは最終的にジャン1世が勝ちましたが、ハインリヒ7世の父フリードリヒ2世と教皇の争いでホーエンシュタウフェン家は滅ぼされています。
ジャン1世はその後ルイ聖王の第8回十字軍に参加、聖王の命を奪った疫病から逃れて母国に帰還した。
ルイ聖王というのはフランス王ルイ9世(1214年ー1270年)のことで、フィリップ4世の祖父になります。
ジャン1世はナバラ王女ブランカとの間に8子をもうけた。
・ジャン2世(1239年ー1305年)
・ピエール(1241年ー1268年)ディナン、エデ、レオン、エンヌボンの各領主
・アリックス(1243年ー1288年)ブロワ伯ジャン1世の妻
・ティボー(1245年ー1246年)
・ティボー(1247年)
・アリエノール(1248年)
・ニコラ(1249年ー1251年)
・ロベール(1251年ー1259年)
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