ルノー・ド・シャティヨン(2)
文字数 712文字
アンティオキア公となったルノーは1156年に東ローマ帝国の支配下にあるキプロス島での略奪を企て、アンティオキア総大司教エムリー・ド・リモージュに軍費の負担を要求した。要求を拒んだエムリーを監禁して拷問にかけた末に軍費を獲得し、1156年春にルノーの部隊がキプロス島を襲撃した。田畑と建物は破壊され、島の住民は暴行、誘拐、あるいは殺害された。さらにルノーは島の正教会の聖職者をすべて集めて彼らの鼻を削ぎ落し、コンスタンティノープルに送り返した。
1157年にボードゥアン3世の支援を受けてアルター要塞を奪回したが、東ローマ帝国とザンギー朝から圧力を受ける。東ローマとの友好関係の確立を図るボードゥアン3世の説得を受け、ルノーは東ローマに屈服する。また、1157年から1160年にかけての時期に君主のヌールッディーンが病に罹ったザンギー朝の拡大が停滞し、ルノーはこの機会に乗じて領地を拡大する。1160年または61年にルノーはヌールッディーンの捕虜となり、15年間アレッポに幽閉される。
1176年に多額の身代金で解放された後、エルサレム王国に現れたルノーは、エティエネット・ド・ミリー(テンプル騎士団長フィリップ・ド・ミリーの娘)と結婚してその所領であったヨルダン川東岸のカラクの城を手に入れ、カラクを拠点とするトランスヨルダン領の領主となった。