神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(10)
文字数 977文字
フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレムに向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。
教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵はフリードリヒへの協力を拒否した。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。
フリードリヒとアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し合い、エルサレム返還の交渉も進められた。 フリードリヒは血を流すこともなく、1229年2月11日にアル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。 両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた。
・キリスト教徒への聖墳墓教会の返還
・イスラム教徒による岩のドームとアル=アクサー・モスクの保有
・軍事施設の建設の禁止
しかし、現地の騎士修道会の中でエルサレムの返還を喜んだのはチュートン騎士団だけであり、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示した。エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会でフリードリヒは自らの手で戴冠した。現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をチュートン騎士団に任せてシチリアに帰国する。
帰国に際してアッコに移動したフリードリヒは、数日にわたって敵対するテンプル騎士団の本部を包囲した。5月1日にフリードリヒは包囲を解いて密かに帰国し、アッコの住民の一部がフリードリヒの一行に罵声を浴びせた。