ティコ・ブラーエ(6)

文字数 1,354文字

ティコ・ブラーエについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1567年4月、ティコは科学者になるという確固たる意志と共に留学から故郷へと戻った。彼は親類の多くから政治と法律の道へ進むことを期待されており、またデンマークは未だスウェーデンと戦争中であったが、彼の家族は科学に人生を捧げるという彼の決断を支援した。ティコの父もティコが法の道へ進むことを望んだが、ティコはロストックとその後のアウクスブルク(そこでティコは巨大な象限儀を建設した)、バーゼル。そしてフライブルクへの留学を許された。
象限儀は四分儀とも言われ、円の4分の1の扇形をした目盛りのついた定規に照準類がついた道具という説明がありました。天体観測や測量、航海、時計としても使われました。
1550年ー1600年ころの時刻用四分儀です。
天体観測での四分儀の使用の様子です。
1568年、彼はロスキレ大聖堂で名誉ある律修司祭(canon)に叙任された。このことで彼は研究に集中することができるようになった。
研究を続けるためにはそうした役職に就くことが重要なのですね。
1570年の終わりに、彼は父の病気を知らされクヌツトープ城に戻った。この城でティコの父は1571年5月9日に死亡した。戦争は終わり、デンマークの貴族たちはすぐに繁栄を取り戻した。すぐ後、別のおじスティーン・ビレ(Steen Bille)はティコが天文台とヘアヴェウ修道院の錬金術研究所を建設するのを支援した。
ティコは若い時に養父や実の父を失っていますが、他のおじが支援してくれたというのは恵まれていると思います。
1571年の終わり、ティコはクヌツトープのルーテル教会の牧師ヤアアン・ハンスンの娘、キアステンと恋に落ちた。彼女は平民であり、結婚すれば貴族としての特権を喪失することになるため、ティコは彼女と正式に結婚したことはない。ただしデンマークの法は貴賤結婚を認めており、貴族の男性と平民の女性が公然と夫婦として3年間生活を共にすることが可能で、その後両者の関係は法的に正式の結婚となった。だが、夫妻はそれぞれの社会的地位を維持し、共に生活する子供たちは平民とみなされ、称号・土地所有権・紋章、更には父親の貴族としての名前に対する権利も認められなかった。
貴賤結婚が厳しい制約のある時代に、それでも平民の女性と結婚したのは凄いことだと思いました。
国王フレゼリク2世は、ティコの選んだ妻を尊重したが、彼自身は愛した女性と結婚できなかった。ティコの家族たちの多くはこの結婚に同意せず、多くの教会関係者は彼に対して神に祝福された結婚ではないとし続けた。キアステン・ヤアアンスダターが産んだ最初の娘、キアスティーネは1573年10月12日に生まれ、ペストを患って1576年に死亡した。ティコは彼女の墓石に心からの哀歌を書いた。1574年、彼らはコペンハーゲンに移住し、そこで娘のマウダリーネが生まれた。後に家族はティコと共に国外に亡命した。キアステンとティコは彼の死までのおよそ30年間を共に過ごした。夫妻は8人の子供を授かり、うち6人が成人まで生きた。
ティコ・ブラーエは自分の生きている時代の慣習や価値観をそれでいいとせず、あらゆるやり方で次の時代へと扉を開いた人だと思いました。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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