ティコ・ブラーエ(6)
文字数 1,354文字
1567年4月、ティコは科学者になるという確固たる意志と共に留学から故郷へと戻った。彼は親類の多くから政治と法律の道へ進むことを期待されており、またデンマークは未だスウェーデンと戦争中であったが、彼の家族は科学に人生を捧げるという彼の決断を支援した。ティコの父もティコが法の道へ進むことを望んだが、ティコはロストックとその後のアウクスブルク(そこでティコは巨大な象限儀を建設した)、バーゼル。そしてフライブルクへの留学を許された。
1570年の終わりに、彼は父の病気を知らされクヌツトープ城に戻った。この城でティコの父は1571年5月9日に死亡した。戦争は終わり、デンマークの貴族たちはすぐに繁栄を取り戻した。すぐ後、別のおじスティーン・ビレ(Steen Bille)はティコが天文台とヘアヴェウ修道院の錬金術研究所を建設するのを支援した。
1571年の終わり、ティコはクヌツトープのルーテル教会の牧師ヤアアン・ハンスンの娘、キアステンと恋に落ちた。彼女は平民であり、結婚すれば貴族としての特権を喪失することになるため、ティコは彼女と正式に結婚したことはない。ただしデンマークの法は貴賤結婚を認めており、貴族の男性と平民の女性が公然と夫婦として3年間生活を共にすることが可能で、その後両者の関係は法的に正式の結婚となった。だが、夫妻はそれぞれの社会的地位を維持し、共に生活する子供たちは平民とみなされ、称号・土地所有権・紋章、更には父親の貴族としての名前に対する権利も認められなかった。
国王フレゼリク2世は、ティコの選んだ妻を尊重したが、彼自身は愛した女性と結婚できなかった。ティコの家族たちの多くはこの結婚に同意せず、多くの教会関係者は彼に対して神に祝福された結婚ではないとし続けた。キアステン・ヤアアンスダターが産んだ最初の娘、キアスティーネは1573年10月12日に生まれ、ペストを患って1576年に死亡した。ティコは彼女の墓石に心からの哀歌を書いた。1574年、彼らはコペンハーゲンに移住し、そこで娘のマウダリーネが生まれた。後に家族はティコと共に国外に亡命した。キアステンとティコは彼の死までのおよそ30年間を共に過ごした。夫妻は8人の子供を授かり、うち6人が成人まで生きた。