オールバニ公ロバート・ステュアート(2)
文字数 1,203文字
しかし事件後もロスシー公暗殺疑惑は消えず、気弱なロバート3世はオールバニ公に表立って詰問することはできなかったが、疑心暗鬼を強め、1406年春に三男ジェームズ(後のジェームズ1世)をオールバニ公の手の届かないところに置いておこうとフランスへ送った。しかしその途中にイングランドの海賊に拿捕され、イングランド国王ヘンリー4世のもとへ送られた。以降ジェームズ1世は1424年までイングランドで幽閉され続けることになり、スコットランドを不在にする。この事件もオールバニ公の王位簒奪の陰謀だったのではという噂が流れた。
事件後間もない1406年4月にロバート3世が崩御。スコットランド議会は不在のジェームズ1世を新国王、オールバニ公を引き続き摂政と宣言した。国王不在によりオールバニ公は以前にもまして強力な摂政権力を手にした。国王も同然に振舞い、自らの名を刻印した王璽を用い、その文書の冒頭には「王の臣民たちへ」ではなく「我が臣民たちへ」を用いた。そのためかイングランドとのジェームズ1世解放へ向けた交渉も積極的ではなかった。
1412年にはスコットランド最初の大学であるセント・アンドルーズ大学を創設した。フランスが1408年にアヴィニョンの対立教皇ベネディクトゥス13世の支持を放棄したため、スコットランド人学生がフランスの大学から排除される可能性があり、その対策のためにベネディクトゥス13世から教書をもらって創設した大学である。またこの創設はジョン・ウィクリフの徒ロラード派の活動を抑えるためでもあった。
ベネディクトゥス13世はアラゴンの大貴族ルナ家出身で、私の弟マルティンはルナ家出身の女性と結婚しました。スコットランドがベネディクトゥス13世を支持していたならば、私もスコットランドとオールバニ公ロバートを支持します。私が死んだ後のことですが・・・
また議会を重んじ、当時としては異例の毎年1回の議会招集を行った。
乱世の中にあってスコットランドをうまく切り盛りしたため「オールバニ公はスコットランドから受けたものより以上の物をスコットランドに与えた」と評された。