メアリー・ステュアート(1)
文字数 1,006文字
メアリー・ステュアート(1542年ー1587年)はスコットランド女王(メアリー1世、在位1542年ー1567年)スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女。ヘンリー・スチュワートダーンリー(1545年ー1567年)は、2度目の夫であり、後のイングランド国王ジェームズ1世の父。
メアリーは王家ステュアートの綴りをStewartからStuartに替えたが、これは自身のフランス好みからであったという。同時代のイングランド女王エリザベス1世と比較されることも多く、また数多くの芸術作品の題材となっている。
親しみを込め、しばしば「クイーン・オブ・スコッツ」と呼ばれる。
メアリー自身は廃位ののち国を追われ、エリザベス1世の命によりイングランドで刑死したが、その子ジェームズはスコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせ継いだ。以後スコットランドとイングランドは同君連合を形づくり、18世紀のグレートブリテン王国誕生の端緒となった。終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は、すべてメアリーの直系子孫である。
1542年12月8日、リンリスゴー城でジェームズ5世の第3子として生まれた。12月14日にジェームズ5世が30歳で急死すると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。摂政にはジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。それからイングランド国王ヘンリー8世の要求により、メアリーは当時王太子だったエドワード6世と婚約させられた。1547年、イングランドの政権を握ったサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる事態になった。1548年、王母メアリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れ、以後フランス宮廷で育てられた。