ナバラ王カルロス3世(1)
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ナバラ王カルロス3世(1361年ー1425年)はナバラ王国の国王(在位1387年ー1425年)およびエヴルー伯としてはシャルル3世(在位、1387年ー1404年)、後にヌムール公(在位1404年ー1425年)「高貴王」と呼ばれる。
外交では対立関係にあったフランス・カスティーリャとの改善に努力し、カスティーリャとは王女エレオノールとの結婚で手を結び、フランスとは1404年にフランス王家(ヴァロワ朝)との緊張の原因になっていたノルマンディー地方のエヴルー・アヴランシュをヌムール公領と交換、シェルブール・シャンパーニュの権利を年金と交換して関係を改善した。
フランスの内乱(ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立)ではブルゴーニュ派と組み、1409年3月にシャルトルで行われたブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)とオルレアン公シャルルの和解式に出席、11月に無怖公と同盟を結んだが、内乱とは関わっていない。
オルレアン公シャルルはフランス王シャルル6世の弟ルイ・ド・ヴァロワの子でシャルル7世の従兄になります。1407年に父がブルゴーニュ公ジャン1世に暗殺されていますが、母も1408年に逝去、彼は形ばかりの和睦を受け入れるしかないという状況でした。
芸術を愛好していたカルロス3世はフランスから画家・建築家を招き、首都パンプローナと郊外のオリテにゴシック様式の建造物を作った。パンプローナには大聖堂を改築、オリテには既存のオリテ王宮に1401年から大改修を行い、1420年に完成した時は複数の塔と庭園を備えた王家憩いの場として作り替えられた。
オリテの宮殿と宮殿にある王妃の回廊です。とても美しい宮殿でしたが、16世紀のアラゴンのナバラ侵攻後に閉鎖されて荒れ、1813年、フランス軍の侵攻の時、宮殿が軍事拠点にされるのを恐れてスペインの軍人フランシスコ・エスポスが命じて宮殿に放火させました。20世紀になって宮殿の修復が始められましたがまだ終わってなく、美しい室内装飾や庭園は永久に失われました。
また、パンプローナの自治体の紛争に介入し、1423年に3つの自治体を統合、パンプローナは1つの行政機関にまとまることになった。他には、複雑なナバラの法律を修正し1418年に発布したり、支持層の貴族への特権を与えたりして貴族寄りの政策を取っている。