教皇ボニファティウス8世(1)
文字数 1,352文字
ボニファティウス8世(1235年頃ー1303年)は中世のローマ教皇(在位1294年ー1303年)フランス王フィリップ4世およびコロンナ家と争い、最晩年に起こったアナーニ事件の直後に「憤死」した。学術、文化の保護者としても知られる。
ローマ市の南東にあるアナーニ(ラツィオ州フロジノーネ県)の名門出身で、本名はベネデット・カエターニである。歴代教皇の別荘があるスポレート(ウンブリア州ペルージャ県)などで教会法などを学び、パリやローマで聖堂参事会の会員となり、1276年にローマ教皇庁入りを果たした。枢機卿に昇進した後、教皇特使としてイタリア半島各地やフランスなどを往復し、各界に多くの知遇を得た。
第192代ローマ教皇のケレスティヌス5世は有徳の人であったが、「教皇の器にあらず」と在位数か月にして自ら退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のカエターニ枢機卿に相談した。ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎夜ささやき、教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったといわれている。
カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した。ケレスティヌス退任後、ただちに再びコンクラーヴェ(教皇選挙会議)がひらかれ、グレゴリウス10世の定めた手続きにしたがって後継者が選ばれることとなって、その結果カエターニ枢機卿がボニファティウス8世としてローマ教皇に選出された。
ボニファティウス8世が教皇となって最初にしたことは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免することと、教皇宮をナポリからローマに移すことであった。ボニファティウスは、先代のようにカルロ2世を前面にたてることはしなかったが、登位後7年にわたってシチリア島の奪回に意を注いだ。カルロ2世は、称号こそ「シチリア王」の名乗りを許されていたが、シチリアの支配権は失っており、事実上の統治者はアラゴン王国のハイメ2世であった。