アルマニャック伯ベルナール7世(2)
文字数 1,057文字
1415年のアジャンクールの戦いでオルレアン公らアルマニャック派の幹部がイングランド軍に殺害されるか捕虜となり、同年と翌1416年に王太子とベリー公が相次いで亡くなると、ベルナール7世はアルマニャック派の筆頭としてパリで独裁を行うようになったため、1417年にパリから追放した王妃イザボーが無怖公と結び政府は分裂、パリはブルゴーニュ派に補給を絶たれ市民が食糧難に苦しみ、ブルゴーニュ派への粛清でベルナール7世に対する市民の不満は高まった。
余は1398年にフランス王シャルル6世と教会大分裂の方針を話し合うフランスの会談に出席したが、酔いつぶれて余の醜態だけが知られることになってしまった。父上カール4世が憧れ、余も滞在したフランスのパリがそのような状態になってしまうとは・・・
私の最初の妻マルタはアルマニャック伯ジャン1世の娘ですから、ベルナール7世は義理の甥にあたります。その彼がこのような状況の中で殺されたなんて許せないです。私はフランスが大好きで、2人の妻はフランス人です。そのフランスの都パリでこのような事件が起きるなんて信じられないし、無怖公は悪魔のような男です。
ベルナール7世は従妹でベリー公ジャン1世の娘ボンヌ・ド・ベリーと結婚し、以下の子女をもうけた。
・ボンヌ(1393年ー?)オルレアン公シャルルと結婚
・ジャン4世(1396年ー1450年)アルマニャック伯
・マリー(1397年ー1404年)
・ベルナール(1400年ー1456年)パルディアック伯、ヌムール伯、ラ・マルシュ伯
・アンヌ(1402年ー?)1417年、ドルー伯シャルル2世と結婚
・ジャンヌ(1403年ー?)
・ベアトリス(1406年ー?)