アルマニャック伯ジャン1世(2)

文字数 1,172文字

アルマニャック伯ジャン1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1368年、黒太子が軍事費捻出のためアキテーヌに重税を課すと、ジャン1世は黒太子に抗議したが聞き入れられず、甥のアルブレ卿アルノー・アマニューと共にフランス王シャルル5世へ上訴、再びフランス側に戻り、休戦していた英仏両国が翌1369年に再戦するきっかけを作った。
ナヘラの戦いでカスティーリャのペドロ1世が黒太子との約束を守らずに戦費を払わなかったから黒太子はアキテーヌに重税を課し、アルマニャック伯ジャン1世は再びフランス側に戻ったのですね。
一方、新たにラングドック代行官として赴任したアンジュー公ルイ1世(シャルル5世の弟、ベリー公の兄)はジャン1世とガストン3世の仲裁を図ったが、ガストン3世に肩入れしている姿勢に反発し苦情を訴えている。
シャルル5世、アンジュー公ルイ1世、ベリー公の3人はみなフランス王ジャン2世とボヘミア王女ボンヌの子です。そしてアンジュー公ルイ1世の子ルイ2世がアラゴン王フアン1世の娘、ヨランド・ダラゴンと結婚しています。
1373年死去、息子のジャン2世が後を継いだ。ガストン3世との対立も受け継がれ1375年に再度の衝突となるが、アンジュー公の仲裁が実を結び、1377年にジャン2世とガストン3世は和睦した。和睦以後も勢力拡大するガストン3世に圧迫されアルマニャック家は苦境に立たされるが、やがて孫のベルナール7世がベリー公を始めとする王族と結びつき、アルマニャック派を結成、フォワ伯が属するブルゴーニュ派と衝突していった。
アルマニャック派とブルゴーニュ派の争いはその時だけでなく、祖父の代からの因縁があったようです。
1327年、ジャン・ド・シャロレー(クレルモン伯ロベールの次男で初代ブルボン公ルイ1世の弟)の娘ベアトリスと結婚、2男2女を儲けた。

・ジャン2世(1333年ー1384年)

・ベルナール(1336年ー1357年/1359年)

・ジャンヌ(1346年ー1388年)ベリー公ジャン1世と結婚

・マルト(1347年以後ー1378年)アラゴン王フアン1世と結婚

あれ、マルトは・・・
はい、マルトは私の最初の妻、マルタのことです。父が決めた政略結婚でしたが、マルタは優しくて私達は結構うまくいっていました。でも産まれた子が娘1人以外は次々と亡くなり、彼女自身も出産で命を落としてしまいました。もしマルタがもっと長生きして跡継ぎとなる子がいたら、アラゴンの歴史は違っていたと思います。でもそうはなりませんでした。
フアン1世とマルタが結婚した1373年にアルマニャック伯ジャン1世は亡くなっているので直接のかかわりはないけど、彼はフアン1世の義理の父になります。次回からはアルマニャック伯ジャン1世の孫のベルナール7世について紹介します。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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