ジャン・ジェルソン(1)
文字数 1,668文字
ジェルソンは敬虔な両親、父アーヌルフ・シャリエルと母エリザベート・ド・ラ・シャルデニエールの間に12人兄弟の7番目として生まれた。ジェルソンのほか兄弟姉妹のうち7人が修道者になっている。彼は14歳でパリ大学のナバール・カレッジに学び、自由学芸を修めると神学を学んだ。そこでパリ大学総長ピエール・ダイイの薫陶を受けた。ダイイは後に司教から枢機卿にあげられ、ジェルソンの生涯の師にして生涯の友になることになる。
ジェルソンは優秀であったため早くから大学内で注目されており、1383年から1384年にかけてパリ大学のフランス人学生団の代表に選ばれた。1387年にはジェルソンはパリ大学の代表団の一員として教皇へ陳情された問題の事情説明に赴くという栄誉を担った。その問題とはパリ大学の出身でドミニコ会の神学博士モンテソノのモンソンなる人物が聖母マリアもまた原罪から逃れ得なかったと主張して他のドミニコ会員と共に大学から追放された事件に関することであった。
モンソンがこれを不服としてアヴィニョンの教皇クレメンス7世に直訴したため、審理を行うべくパリ大学の代表が召喚され、ジェルソンやダイイがアヴィニョンに赴いたのである。ジェルソンのこのアヴィニョンへの旅は、後世のマルティン・ルターのローマへの旅とよく比される。2人ともそこで目にした教会の現状に心を痛め、教会改革を決意したという共通点がある。ジェルソンは教会分裂の現状と聖職者のモラルの低下に衝撃を受け、以後パリ大学を拠点に聖職者の霊的向上と教会分裂の克服に全力を注ぐことになる。
1392年、ジェルソンは博士号を取得した。1395年にはル・ピュイの司教に選ばれたピエール・ダイイの後任として32歳でパリ大学総長に選ばれた。改革への熱意に燃えるジェルソン総長のもと、パリ大学の名声は頂点に達した。王権と教皇権に対する大学の自主性を主張しただけでなく、大学の研究環境と教員たる聖職者たちのモラルを向上させたことで、パリ大学にはヨーロッパ中から優れた学生たちが集まった。
しかしジェルソンの著作を分析すると、この時代のジェルソンは一方で職責の重さに悩んでいたこと、終日書簡の執筆と自著の分析に追われていたことがわかる。彼の著作は3つの時代に区分できる。第1は大学改革に取り組んだ時代、第2は教会分裂の収拾にかけた時代、最後は晩年の信心書の情熱を注いだ時代である。