クレメンス7世(3)
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ローマ略奪で、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。クレメンス7世が優柔不断だった面もあるが、むしろイタリア戦争、宗教改革、オスマン帝国のヨーロッパへの圧力と、カトリック教会史上最悪の状況であったことから、教皇個人の資質のみを責めるのは酷かもしれない。イタリアとヨーロッパが分裂し、混乱を重ねる時代だったのである。
クレメンス7世はカール5世と和解し、カール5世に皇帝の戴冠をボローニャで行う(戴冠式は本来ローマのヴァチカン宮殿で行われるが、ローマ略奪により都が復旧していなかったことによる)これ以後もイタリアを巡ってフランスとハプスブルク家の戦闘は続くものの、後者の優位がほぼ確定する。
ボローニャで行われた戴冠式を若い時のミゲル・セルベートが見ています。ローマ略奪の時の被害者と加害者だったクレメンス7世とカルロス1世が何事もなかったかのように厳かな雰囲気の中儀式を行い、教皇の姿を見てその体に触れれば罪が許され天国へ行けると信じている民衆が道で跪き、教皇の足やサンダルに触れようとする姿にミゲルは激しい怒りを感じ、カトリックの側から離れてプロテスタントの学者の家に行き、やがてプロテスタントの学者にも嫌われて孤立し、20歳で最初の本『三位一体説の誤り』を出版します。ボローニャでの戴冠式を見たことで彼の人生は大きく変わりました。
なお、この間にメディチ家のアレッサンドロ(クレメンス7世の庶子)は教皇の後見のもとでフィレンツェを統治していた。1527年、ローマ略奪の報が伝わると一時追放されるが、1530年にカール5世の支援により復帰、1532年にはフィレンツェ公に叙され、メディチ家は名実ともにフィレンツェの君主となった。
晩年の1533年には、遠縁のカテリーナ・デ・メディチとフランス王子アンリ(のちのアンリ2世)の結婚式に出席する。離婚問題で紛糾していたイングランド王ヘンリー8世とは対立を深めたが、その1年後の1534年9月25日に死去した。時代の激しい荒波にもまれた「悲劇の教皇」であった。