ブルターニュ公ジャン2世
文字数 1,428文字
妃がイングランド王女ベアトリスであったため、彼女の兄であるエドワード1世と非常に親しかった。彼はリッチモンド伯に過ぎなかったが、父ジャン1世やルイ聖王とともに第8回十字軍に赴いている。十字軍は1271年にルイ聖王がチュニスで没して終わり、父ジャン1世はブルターニュへ帰国した。しかし彼はパレスチナへ向かったエドワード王子のあとについていった。
彼は自分の子供たちの少なくとも3人を連れてイングランド王のもとにあった。エドワード1世がジャンをアキテーヌの総司令官に任命したため、シャルル・ド・ヴァロワ率いるフランス王の軍勢に対してアキテーヌを守らねばならなかった。
フランスとの和平が結ばれると、ジャン2世は孫息子ジャン(ジャン3世)とシャルル・ド・ヴァロワの娘イザベルを結婚させた。これにより、1297年にフィリップ4世がジャン2世をフランス貴族とした。1297年から1304年まで、フラマン地方で戦いを続けるフランス王の軍旗のもとでジャン2世は戦った。
サン=ジュスト教会へ戻る道すがら、彼は教皇の乗るラバの手綱を引いていたが、大観衆に押されて壁が崩落し、教皇はラバから落ち、ジャン2世は壁の下敷きになった。ジャン2世は事故から4日後に死んだ。彼の遺体は鉛の柩に入れられ、彼が創設したカルメル会のプロエルメルの修道院に埋葬されるべく運ばれた。1821年にジャン2世の柩はサンタルメル教会に移されている。