ブルターニュ公ジャン2世

文字数 1,428文字

ブルターニュ公ジャン2世について紹介します。作品集は下の画像から入ってください。
ジャン2世(1239年ー1305年)はブルターニュ公。ジャン1世赤毛公とブランカの子。1268年よりイングランド貴族としての称号リッチモンド伯を持っていた。
妃がイングランド王女ベアトリスであったため、彼女の兄であるエドワード1世と非常に親しかった。彼はリッチモンド伯に過ぎなかったが、父ジャン1世やルイ聖王とともに第8回十字軍に赴いている。十字軍は1271年にルイ聖王がチュニスで没して終わり、父ジャン1世はブルターニュへ帰国した。しかし彼はパレスチナへ向かったエドワード王子のあとについていった。
ルイ9世はチュニジアで亡くなっているのですね。
1285年、彼はフランス王フィリップ3世に同道してアラゴン王ペドロ3世と戦った(アラゴン十字軍)
え、フランスがアラゴンと戦ったこともあったのですか?
彼は自分の子供たちの少なくとも3人を連れてイングランド王のもとにあった。エドワード1世がジャンをアキテーヌの総司令官に任命したため、シャルル・ド・ヴァロワ率いるフランス王の軍勢に対してアキテーヌを守らねばならなかった。
フランス王と一緒に戦ったり、イングランド側で戦ったり、なんか複雑ですね。
ジャンは挫折のみ味わった。ブルターニュで食糧を補給しようとしたイングランド軍がフィヌテールのサン・マチュー修道院を略奪したのである。ジャン2世は隣国に自軍の軍事力を誇示するために軍を招集した。
戦争が長引くほど食糧が不足して略奪が起きてしまい、それを防ぐためにも力を見せつけなければならないのでしょうか?
フランスとの和平が結ばれると、ジャン2世は孫息子ジャン(ジャン3世)とシャルル・ド・ヴァロワの娘イザベルを結婚させた。これにより、1297年にフィリップ4世がジャン2世をフランス貴族とした。1297年から1304年まで、フラマン地方で戦いを続けるフランス王の軍旗のもとでジャン2世は戦った。
今度はフランス王の側で戦ったのですね。
和平後の1305年、彼はブルトン人の司教たちとの争いを解消するため、ローマ教皇クレメンス5世の戴冠式に出席すべくリヨンへ向かった。
クレメンス5世はボニファティウス8世のアナーニ事件と憤死の後選ばれた教皇が8ヶ月後に急死し、その後選出された教皇です。リヨンで戴冠式を行い、教皇庁をアヴィニョンに遷しました。
サン=ジュスト教会へ戻る道すがら、彼は教皇の乗るラバの手綱を引いていたが、大観衆に押されて壁が崩落し、教皇はラバから落ち、ジャン2世は壁の下敷きになった。ジャン2世は事故から4日後に死んだ。彼の遺体は鉛の柩に入れられ、彼が創設したカルメル会のプロエルメルの修道院に埋葬されるべく運ばれた。1821年にジャン2世の柩はサンタルメル教会に移されている。
そのような事故で亡くなるなんて・・・
1260年、サン=ドニでイングランド王女ベアトリスと結婚。6子をもうけた。彼女の持参金としてリッチモンド伯位がジャン2世にもたらされた。

・アルテュール2世(1262年ー1312年)

・ジャン(1266年ー1334年)リッチモンド伯

・マリー(1268年ー1339年)サン・ポル伯ギー4世・ド・シャティヨンの妻)

・ブランシュ(1270年ー1327年)フィリップ・ダルトワの妻

・ピエール(1269年ー1313年)レオン子爵

・アリエノール(1275年ー1342年)フォントヴロー修道院長

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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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