スコットランド王ロバート1世(5)
文字数 1,152文字
1303年にエドワード1世は再びスコットランドに侵入してエディンバラに達し、パースの手前まで行軍している。エドワード1世は7月までパースに滞在し、ダンディー、ブレヒン及びモントローズを経て、8月にはアバディーンに到着している。南のダンファームリンへの道に引き返す前に、ここからマレーを通ってバデノッホに行軍している。スコットランド全土はエドワード1世の従属下におかれ、ウィリアム・ウォレスを除く全スコットランドの指導者が1304年に降伏した。”スコットランドの保護者”であったジョン・カミンもまたエドワード1世に服従した。
1304年6月11日に、エドワード1世によるスターリング城包囲に際してスコットランドの同胞たちによる勇気ある抵抗を見せつけられたロバートとウィリアム・ランバートンは、互いの”友好と全ての者達に対する同盟”の協定を結んだ。仮に秘密協定を破ったならば、総額10000ポンドを罰として支払うことになっていた。この協定は、両人とも既にイングランドに降伏していたにもかかわらず、深い愛国心の証であると大概は解釈されている。
スコットランド側が防備を固めたことで、エドワード1世は王国としてのそれを破壊することにした。暴力に物を言わせる形でスコットランドの貴族と都市民からの忠誠を獲得し、議会では後のイングランド議会と並んでスコットランド支配を設立するのに見合う人物を選出することに固執した。一見したところではスコットランド人が政府に参加したように見えるものの、内実はイングランドの圧政下に置かれてたのであった。エドワード1世の甥であるリッチモンド伯がスコットランド政府を従属させるための先頭に立った。