タンクレード(2)
文字数 1,022文字
タンクレードは1097年5月のニカイア攻囲戦に参加したが、アレクシオス1世の部隊がニカイアのルーム・セルジューク朝兵士やギリシア人市民らと密かに通じ、ニカイア市を十字軍ではなく東ローマ帝国に降伏させた。この出来事で、タンクレードは東ローマ帝国を信用できないと考えるようになる。
1097年後半、タンクレードら一部の十字軍騎士は、東ローマ軍に案内されて小アジアを進む十字軍本隊とは分かれて別行動をとり、タルソスほかキリキアの平野部の都市を征服しながら東へ進んだ。タンクレードらは1097年10月から翌1098年6月までかかったアンティオキア攻囲戦でも活躍した。攻囲戦終了後、ボエモンはアンティオキアの領有を主張し、同地に残留してアンティオキア公国を成立させる。
1099年、聖地へ進むタンクレードはレバノンの町アルカ(アルカ・カエサリア)やパレスチナの町ベツレヘムを落とした。7月にはエルサレム攻囲戦の末、十字軍はファーティマ朝が守る聖都エルサレムを陥落させた。タンクレードとベアルン子爵ガストン4世はともにエルサレム市内一番乗りを主張している(一方、『ゲスタ・フランコルム』によれば、一番乗りを果たしたのはフランドルのトゥルネーの騎士レタルデとエンゲルベルトの兄弟だったという)
エルサレム陥落の際、タンクレードは神殿の丘の占領を宣言し、モスクの屋根に逃れたムスリムなどの市民らの安全を保証するため、持っていた旗を彼らに渡した。しかし結局彼等も十字軍による市内略奪の際に虐殺されることになる。『ゲスタ・フランコルム』によれば、これを知ったタンクレードは非常に怒ったという。
十字軍兵士らが巡礼を済ませて次々と故郷へと戻る途中、タンクレードは聖地に残り、エルサレム聖墓守護者ゴドフロワ・ド・ブイヨンが、死去するまで腹心を務めている。エルサレム王国が成立するとその封臣であるガリラヤ公国の公爵となった。