トマス・ミュンツァー(2)
文字数 978文字
アラゴンではこのような農民一揆はあまりなかったです。アラゴンも内陸部は雨が少なくて農民は貧しいです。でも教会や修道院を中心に昔からのキリスト教の信仰と慎ましい生活を守り続けたから、支配者を恨んで暴力に発展するということにはならなかったです。
ルターに対する公開討論を望んでニュルンベルクへ赴き、その後ドイツとスイスの国境でドイツ農民戦争の最初の兆しを目撃した。南ドイツに滞在して旧約聖書に基づいた農業改革について説教し、反乱はもはや猶予されるべきでないとの信念を固めた。
テューリンゲンとマンスフェルトで革命を組織するためにミュールハウゼンに戻るが、ザクセン・ブラウンシュヴァイク・ヘッセン諸侯の連合軍に敗れ(フランケンハウゼンの戦い)、捕らわれてプファイファーとともに斬首された。
フス戦争は傭兵の経験がある者が中心になっていたから長い間続いた。だが、ミュンツァーは実戦の経験がなく理論だけで、戦いに強い者を仲間に入れてもいなく農民ばかりであった。これでは経験豊富な諸侯の軍隊にはかなわないであろう。
ミュンツァーは宗教改革の最左翼、ルターの穏健派に対し過激派を代表した神学者である。聖書研究にとどまらず、聖書の言葉を階級闘争に翻訳し、農民大衆を理想社会建設へ導こうとした。
彼は体躯矮小にして、顔は浅黒く、髪は黒く、眼は炎のごとく、弁舌は粗野で民衆的かつ熱烈、内的衝動にしたがって行動し、組織の人というよりは独立不羈・傍若無人の人柄といわれる。