イングランド王ウィリアム1世(2)
文字数 845文字
当時のイングランドはサクソン七王国の支配の後、一時デーン人の支配を受けた。1042年には、再びウェセックス王家のエドワード懺悔王がイングランド王に即位した。その地位は周辺国の微妙な力関係の上に依拠するもので世嗣のいないエドワード懺悔王の後を周辺国の王や諸侯達は虎視眈々と狙っていた。ギヨームは1052年にイングランドへ渡海、懺悔王から王位継承を約束されたとされる。懺悔王の母エマがギヨームの大叔母であることがギヨームの王位継承権の根拠である。また懺悔王はデーン人の支配を逃れ、20年余りノルマンディーにて亡命生活を送り、ギヨームとは親しい関係にあった。
ノルマンディーへ帰還後の1053年にマティルダと改めて結婚、レオ9世の結婚禁止令は1059年になって教皇ニコラウス2世によって解除されイングランド王家と縁戚を得るに至った。マティルダとの間にノルマンディー公ロベール2世、イングランド王ウィリアム2世、ヘンリー1世、アデル(スティーブンの母)などが生まれた。後に腹心となるカンタベリーのランフランクスともこの頃に出会い、彼をルーアン大司教に任命した。1063年にル・マンとメーヌを征服、領土を拡大した。
翌1064年、懺悔王の義兄でイングランド王家と連なるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)がフランスに渡ろうとして嵐で難破、ノルマンディーに漂着した。ギヨームはハロルドを歓待、ハロルドもギヨームに臣従の礼を取り、懺悔王亡き後のギヨームの王位継承を支持することも約束した。しかし、ハロルドはイングランド帰国後にこの約束を破ることになる。