ギヨーム・クリトン(3)
文字数 1,068文字
1119年、ギヨーム・クリトン側にルイ・肥満王がついた。ルイ肥満王はセーヌ川下流のノルマンディー公国へ攻め込んだ。1119年8月20日、ブレミュールの戦いでフランス軍はヘンリー碩学王の軍と対峙し、決定的な敗北を喫した。
戦いの日、ギヨームは王の警護兵の中に新入りの騎士として騎乗しており、かろうじて拘束から逃れた。ギヨームのいとこでヘンリー王の息子ウィリアム・アデリンは、翌日ギヨームが戦闘で失った馬に『必需品』を乗せて送り返した。
反乱軍は崩壊したが、ギヨームは引き続きフランス宮廷から支援を受けた。1119年10月、ルイ肥満王はランスでギヨームの件でローマ教皇の関心を引き、亡命した少年の処遇を正当化するよう、ヘンリー王に仕向けた。
1120年11月25日、ヘンリー碩学王の跡取りウィリアム・アデリンが遭難死すると、ギヨーム・クリトンの運命が一変した。彼は今や、イングランドとノルマンディーの明らかな男性相続人であった。ノルマン貴族の重要な者たちがギヨーム側についた。ヘンリー碩学王の問題はさらに悪化した。
ウィリアム・アデリンは、アンジュー伯フルク5世の娘マティルドと結婚しており、フルク5世はウィリアムの死後、マティルドの持参金として持たせたメーヌの複数の城や町を返還するように求めたが、ヘンリーはこれを拒否したのである。フルク5世は娘シビーユとギヨーム・クリトンを結婚させ、彼女の持参金としてノルマンディーとアンジューの間にあるメーヌ伯領を彼に与えた。ヘンリー碩学王は教会法に強く訴えたが、最終的にギヨームとシビーユの結婚は血縁関係の近さを理由に、1124年8月に無効とされた。
深刻な貴族の反乱が、ギヨームを支持するノルマンディーで起きた。ところが反乱はヘンリー王の情報網と指導者の組織化の欠如で敗北した。ルイ6世は、東側からルイを脅かす神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世(ヘンリー王の義理の息子)の積極的な介入に気をとられた。