マーガレット・オブ・ヨーク(1)
文字数 1,272文字
イングランド王国、ノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城でヨーク公リチャードとセシリー・ネヴィルの第7子として誕生。
1455年5月、マーガレットが9歳の時、父ヨーク公リチャードが、ランカスター朝のイングランド王ヘンリー6世に叛乱を起こし、薔薇戦争が勃発する。1460年に父は戦死し、1461年に兄エドワード4世が王座に就いた。
一連の内乱において、ブルゴーニュ公フィリップ(善良公)はヨーク派を支持していた。一方、フランス王国の国王ルイ11世はランカスター派を支持していた。フィリップ善良公は1467年に逝去し、公位は嫡男シャルルが継承した。1468年にランカスター派が降伏し、薔薇戦争における第一次内乱は終息した。
こうした中、イングランド王国とブルゴーニュ公国は、フランス王国に対峙するため、政治・軍事における同盟関係を必要とした。また、イングランド(羊毛の生産)とブルゴーニュ(毛織物産業)には商品経済関係が成立していた。しかし、15世紀を通じ、イングランド王とブルゴーニュ公は1462年から65年をピークに、経済的対立を深めていた。そこで、国際的な商人共同体も、両国の婚姻に基づく結びつきの強化を支持した。
一方、フランス王家(ヴァロワ家)側にも、フィリップ善良公が死にゆく1467年頃、ウォリック伯リチャード・ネヴィルに仲介させて、ルイ11世とヨーク公リチャードをルーアンで引き合わせる計画があった。この対面では、ブルゴーニュ公領の分割と、マーガレットとブレス伯フィリッポ(後サヴォイア公)を縁組させることが話し合われる予定だった。フィリッポの妹シャルロットはルイ11世妃であり、サヴォイア家を通じ、イングランドのヨーク家とフランスのヴァロワ家を繋ぐ縁談であった。
しかし、フランス側の画策に先立つ1465年、シャルル突進公の前妻イザベルの逝去後、シャルルは既にロンドンに使者を送っており、エドワード4世はウォリック伯を介してシャルルとマーガレット、そしてシャルルの一人娘マリーと王弟クラレンス公ジョージとの二重結婚を提案した。