ブルターニュ公ジャン5世(2)
文字数 938文字
成長してからはフランスの内乱に巻き込まれ、オルレアン派(後のアルマニャック派)とブルゴーニュ派の政争ではオルレアン派に入り、1406年にブルゴーニュ派の首領で豪胆公の息子のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)が娘イザベルをオリヴィエ・ド・ブロワ(ジャン1世・ド・シャティヨンとマルグリットの息子)と結婚させたことに反発、妹ブランシュをアルマニャック伯ベルナール7世の息子ジャンに嫁がせた。
1410年にベリー公ジャン1世の主導で結成されたジアン同盟に加わり、オルレアン公シャルル、アルマニャック伯を頭にブルボン公ジャン1世・クレルモン伯シャルル父子と妹マリーの夫アランソン伯(後にアランソン公)ジャン1世も参加しアルマニャック派が結成された。ジャン5世は積極的に戦闘を行わなかったが、弟のリッシュモンはアルマニャック派の部将としてブルゴーニュ派と戦った。
1415年8月、イングランド王ヘンリー5世が北フランスに上陸、アルマニャック派がイングランド軍を倒そうとして10月25日のアジャンクールの戦いで大敗した。ジャン5世は8000人の援軍を連れて戦場へ向かおうとしたが間に合わず、義弟は戦死して弟がオルレアン公とブルボン公共々イングランドに捕らえられる事態となった。
イングランドに住んでいた母もこの頃にはヘンリー5世に冷遇され、身内を2人も人質に取られたジャン5世は外交上迂闊な行動が取れなかった。以後彼はイングランドとフランスの間を行ったり来たりすることを繰り返していく。