第4代ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘップバーン(2)
文字数 997文字
ジェームズは自ら騎馬隊の装備を整え、訓練もおこない、絶え間なく進入を繰り返すイングランドの軍隊や盗賊団を国境で何度も撃退した。イングランドの兵士の襲撃に常に怯えていたエディンバラの住民たちは、もっとジェームズに権限を与えて欲しいと陳情するほどであった。そのためメアリー・オブ・ギーズはジェームズが22歳の頃、国境のハーミテージ砦の指揮官に任命した上、地域一帯の指揮権を与えた。この時ジェームズは父の死により第4代ボスウェル伯となっていた。
メアリー・オブ・ギーズはこう書いている。
ボスウェルを選んだのは、彼が貴族達の中で抜きん出ていたからです。彼にはスコットランドの防衛と敵への攻撃に関する全権限をゆだねました。まだ若いのにイングランドを相手に勇敢な戦いぶりを見せ、その優れた判断力や決断力には目をみはるものがありました。
1560年に夫フランソワ2世と死別して未亡人となった女王メアリーは、1561年8月20日に帰国した。女王の帰国に当たって、ボスウェル伯は海軍司令官として万全を尽くした。当時のスコットランドの実力者だったマリ伯ジェームズ・ステュアートは、なんとかボスウェルを会衆の仲間に引き入れようと何度も説得を試みたが、彼はあくまでもメアリーに忠誠を誓い、決してこの誘いに乗ろうとはしなかった。このため、マリ伯とボスウェルは終生にわたって激しく対立することとなった。また、マリ伯は影で手を回して、できるだけボスウェルをエディンバラから遠ざけ、枢密院に影響力を持てないようにした。権謀術数を駆使するマリ伯に比べ、どちらかというとボスウェルは行動型のタイプで、自分が主体的に関わらない場合、宮廷での貴族たちの謀略を嫌っていたという。