クレルヴォーのベルナルドゥス(2)
文字数 914文字
同修道院はベネディクト会改革運動から出たシトー会によるものであったが、初期の熱意を失いつつあった。しかし、そこへ地域の名門一族からベルナルドゥスをはじめとする理想に燃えた若き入会者が一挙に30人も加わったことで、ベネディクト会のみならず西欧の修道制に大きな影響を与える修道院になっていく。シトー修道院は活気にあふれ、そこからさまざまな修道院が生まれていった。その中の一つに、トロワ伯ユーグから与えられたオーブの谷の一角に1115年に創設されたクレルヴォー修道院があった。院長には若きベルナルドゥスが任命された。このことから彼はクレルヴォーのベルナルドゥスと呼ばれることになる。シトー会の新しい会則に従って作られたクレルヴォー修道院は、シトー会の中でも大きな影響力を持つようになっていく。形式的にはシトー修道院の子院であったが、実質は最重要修道院であった。それもこれもベルナルドゥスの名声と人格に負うところが大きかった。
ベルナルドゥスの聖性と自己節制の厳しさ、そして説教師としての優れた資質によって、彼の名声は高まっていき、クレルヴォーには多くの巡礼者が押しかけるようになった。ベルナルドゥスが奇跡を起こしたという噂が広まると、各地から病者や障害のある者がやってきて、奇跡的な治癒を願った。結果的にこの名声によって、静かな観想生活を送りたいと願っていたベルナルドゥス自身の思いとは裏腹に、世俗世界にかかわらざるをえなくなってゆく。
修道院には伝統的に病気や怪我についてや治療の仕方など医学や薬学の知識が伝わっていました。医者としての資格はなくても、修道院の中には優れた治療のできる人が数多くいました。だからベルナルドゥスの場合もそのような知識や技術を使って治療したのであって、奇跡を起こしたというわけではないと思います。