シュテファン・ツヴァイク(3)
文字数 1,097文字
1933年ヒトラーのドイツ帝国首相就任の前後からオーストリアでも反ユダヤ主義的雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いでザルツブルクの自宅が捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命する。
ツヴァイクはその後、英国(バースとロンドン)に滞在し、1940年に米国へ移った。1941年にはブラジルへ移住。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に再婚した2番目の妻であるロッテとともに、バルビツール製剤の過量摂取によって自殺した。死の1週間前には、旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し(シンガポールの戦い)、同時期にリオデジャネイロのカーニバルを見ており、自分達のいる所とヨーロッパとアジアで行われている現実のギャップに耐え切れず、ますます悲観したようである。
作曲家のリヒャルト・シュトラウスが、ナチ政権下で自身の作品歌劇『無口な女』における、台本作家としてのツヴァイクの名前のクレジットを守るために戦ったことは良く知られている。このため、アドルフ・ヒトラーは予定されていたこの歌劇の初演への出席を取りやめ、結局この歌劇は、3回の公演後に上演中止とされた。
2009年3月になってツヴァイクの死に1つの説が出てきた。それはアメリカ海軍が新型駆逐艦に「シュテファン・ツヴァイク」の名前を付けようとして、その事を知ったツヴァイクがますます絶望したという説である。その抗議の手紙(手紙の主は、ツヴァイクと親交があった作家トーマス・マンであったと思われる)により、アメリカ海軍作戦部長アーネスト・キングは、新型駆逐艦にツヴァイクの名前を付ける事を取りやめる命令をしたという。