アキテーヌ公ギヨーム8世(2)
文字数 865文字
アキテーヌ公ギヨーム8世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
父ギヨーム5世の2番目の妻はガスコーニュ公の娘であり、このためガスコーニュはアキテーヌの統治下におかれていた。ギー・ジョフロワは1052年、兄ギヨーム7世の統治中、年代記者ジャン・ジョールガンによるとギー・ジョフロワはアルマニャック家にと嫁いだ異母姉アドレー(次兄ウードとは同母の姉弟)の子で甥にあたる当時のガスコーニュ公ベルナール2世トゥマパレルを説得し、15,000ソルで公位を(おそらく無理やり)売買し、ギージョフロワがガスコーニュ公となる。ガスコーニュを失ったベルナールにはアルマニャック伯領が残された。
随分複雑なことをやってガスコーニュ公位を手に入れていますね。
1052年にガスコーニュ公となり、1058年にギヨーム7世が跡継ぎがなく死去したことを受けてアキテーヌ公ギヨーム8世となった。
最終的にギヨーム8世がガスコーニュとアキテーヌの広大な領土を手に入れるのですね。
ギヨーム8世は1064年にバルバストロ(ウエスカ県)を包囲されたアラゴン王ラミロ1世を援けるための連合軍の指導者の1人だった。この連合軍はローマ教皇アレクサンデル2世の提唱によるもので、後の十字軍の先駆けとなった。
アラゴンはギヨーム8世によって助けられたということか。
ラミロ1世の時代に同じキリスト教徒の国を助ける目的で教皇が連合軍を呼びかけ、それが十字軍の先駆けとなった、つまりアラゴンが十字軍のきっかけを作ったかもしれないと考えるとショックです。
アラゴンと連合軍は都市を征服し、住民を殺害して多くの戦利品を獲得した。しかしアラゴンは翌年にはこの都市を奪還された。
この時代は仕方がないことかもしれませんが、アラゴンでも住民の殺害が行われたというのはショックです。
ギヨーム8世の2人の娘がともにイベリア半島の王に嫁いでいることから明らかなように、当時スペインのキリスト教勢力との同盟関係は重要視されていた。
ギヨーム8世はアラゴンやカスティーリャと深い関係があったようです。
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