クレメンス6世(2)
文字数 1,160文字
でもクレメンス6世がカール4世を神聖ローマ皇帝として擁立したのは、家庭教師をした教え子を支えるというよりも神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世との対立があったからですよね。カール4世はとても運がよかったと思います。
1350年の聖年には多くの巡礼者がローマを訪れたが、教皇がローマに赴くことはなかった。アヴィニョン捕囚が終わる時期は、1370年にクレメンス6世と同名の甥がグレゴリウス11世に選出され、ローマに帰還した1377年である。
結局教皇庁がアヴィニョンにある間はフランスの影響を強く受け、フランス人の教皇が続いていました。だからこそ教皇が帰還した時にローマの市民は次の教皇はイタリア人から出したいと圧力をかけ、それが教会大分裂へと繋がっていくのですね。
なお、1348年1月頃からアヴィニョンはペスト禍にさらされており、この間に彼は新しい墓地のための土地を買い入れ、瀕死の病人全てに赦免を与え、病気の原因を探るために医師による死体解剖を許可し、ユダヤ人迫害を弾劾する勅書を出した。
この時のクレメンス6世の行動は立派だと思います。ペストが広がり命が助からなくても、赦免が与えられれば穏やかに死を迎えることができます。解剖が許可されたことで、この時すぐにペストの原因はわからなくても、医学は進歩してたくさんの病気の原因がわかるようになりました。ペストが流行った時にはユダヤ人の迫害も激しくなりましたが、そうしたことを弾劾する勅書も出しています。教皇として贅沢したり堕落した部分もありますが、ペストが流行するという大変な状況の中で、教皇として何をするのがよいのか考え、それを実行しています。こうしたことができるのは、やっぱり幅広い教養、知識を持っていたからでしょうか?
ペストは1347年10月に中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたくまに広がり、1348年にはアルプス以北のヨーロッパに伝わっています。14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人前後が死亡したそうです。