ジョン・オブ・ランカスター(4)

文字数 1,235文字

ジョン・オブ・ランカスターについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
しかし、包囲戦が始まった直後の1428年11月にソールズベリー伯が戦死して第4代サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、第7代タルボット男爵ジョン・タルボット(後の初代シュルーズベリー伯)、トーマス・スケールズらが指揮を引き継いだが戦闘は長期化、1429年5月にジャンヌ・ダルク率いるフランス軍にトゥーレル要塞を落とされ、包囲されていたオルレアンは解放された。作戦の失敗を知ったパリのベッドフォード公は、ジョン・ファストルフ率いる援軍をパリから送ってタルボットらが率いるオルレアン攻囲残党軍と合流させたが、彼等は6月にパテーの戦いで敗れて壊滅してしまった。
こういう状況なら、ベッドフォード公がジャンヌを憎むのも無理ないと思いました。それがわかっていて彼女を引き渡したなら、ブルゴーニュ公フィリップ3世ややリニー伯ジャン2世の罪は大きいです。
これによりフランス軍にランスへの道が開かれ、7月にはシャルル7世がジャンヌらを引き連れてランス大聖堂で戴冠式に臨んだ。8月にはジャンヌ率いるフランス軍がパリに接近してきた。ベッドフォード公はパリ市の壁や市民軍を強化し、忠誠確認などで市内の徹底した思想統制を図って防衛力を強化した。その結果、9月のパリ包囲戦でフランス軍を退けることに成功した。
ベッドフォード公も必死ですね。
1430年2月にはフィリップ3世にイル=ド=フランス東部ブリとシャンパーニュへの統制権を認め、それを餌にしてブルゴーニュ派のコンピエーニュ包囲戦への参戦を取り付けた(フィリップ3世としてはイギリスと全面共同作戦を行う意思などなかったが、目下同盟者ベッドフォード公の顔を立てておく必要があったし、ブリとシャンパーニュを手に入れておけばシャルル7世との和解交渉の時に役に立つと考えていた)
そんな理由で参戦していて、それでもジャンヌはイングランドに引き渡した、ブルゴーニュ派は本当に酷いです。
この作戦は1430年夏いっぱい続けられたが、イングランド軍とブルゴーニュ軍の敗北で終わった。しかしこの戦いの最中の5月23日にブルゴーニュ軍がジャンヌを捕虜にすることに成功した。コンピエーニュを管轄するボーヴェ司教ピエール・コーションを通じてジャンヌの身柄を買い受け、コーションを裁判長とする宗教裁判に引き渡した。1431年1月から5月にかけて彼女の宗教裁判が行われたが、最終的には獄中で男装したことで戻り異端の罪を犯したとされて、5月29日に世俗裁判権(イングランド)に返還された。ベッドフォード公は重ねて世俗裁判を行わず、翌30日にジャンヌを火刑に処した。
ジャンヌの火刑に誰がどのように関わったか、詳しい記録が残っています。でもそうした記録よりもシャルル7世がジャンヌを見殺しにしたというイメージばかりが伝わっているようです。
正直私も詳しく調べる前はそのようなイメージを持っていました。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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