フルドリッヒ・ツヴィングリ(2)
文字数 854文字
ザンクト・ガレン州トッゲンブルク地方のヴィルトハウス(Virthaus)にある村にドイツ系の地元の有力者の子として生まれたツヴィングリは、ウィーン大学とバーゼル大学で宗教学を学んで、人文主義者(ヒューマニスト)としての学識を深めた。1506年、22歳で司祭に叙階されてグラールスの主任司祭となった。やがてフランス軍が徴兵活動を行うと、これに抗議してグラールスを去った。
1518年チューリッヒの市参事会に招かれてチューリッヒ司教座聖堂の説教師の地位につく。自らも人文主義者であり、ギリシャ語とヘブライ語を学んでいたツヴィングリは、当時一世を風靡していた人文主義者デジデリウス・エラスムスから大きな影響を受け、聖書の原典研究に傾倒した。また、主日の説教の内容も聖書と教父の著作のみによるものにしようと決意した。
キリスト教の原点回帰を意識し始めたツヴィングリの目には、当時の教会制度にはさまざまな問題点があると思われた。彼の人生の転機となったのはコンスタンツ大司教の許可を得ずに贖宥状販売の説教を行っていたベルナルディノ・サンソンという説教師を批判する説教を1519年に行ったことであった。この説教自体はコンスタンツ大司教の依頼によるものであり、結果的にサンソンはローマ教皇レオ10世によってその職を解かれることになったが、ツヴィングリはこの頃からカトリック教会との距離を意識し始めることになる。ツヴィングリ自身は否定しているが、ルターの活動も影響していたと考えられている。ツヴィングリはキリスト教生活におけるすべての慣行を、聖書を基準にして再検討すべきだと考えた。