教皇と皇帝の対立
文字数 2,303文字
12使徒の1人、ペトロが初代教皇となります。ペトロの肖像画はたくさんの画家が描いていますが、あんまり新しいのはここにいる皆さんに分からないと思うので、古い時代のものを入れます。肖像画から作品のページにも入れます。
余の父上、サンチョ・ラミレスは教皇とのよい関係を築いた。ローマまで巡礼の旅をして実際に教皇と会い、またそこで自分はサン・ペトロの家臣であると宣言した。当時まだアラゴンでは珍しかったペドロという名前を長男につけた。余の兄上、ペドロ1世だ。
おお!ペドロという名前はサン・ペトロに由来する名前であるのか。余はレコンキスタの英雄と称えられながら、フランスでの領土の争いでカタリ派の味方をしたため教皇に破門されてしまった。断っておくが、カタリ派に味方したのは信仰の問題ではなく、領土の争いだ!それなのにカタリ派が絡んでいたために異端にされてしまう、こんな理不尽なことがあるか!
第1回十字軍が始まる前、教皇は演説をしました。聖地を取り戻すことは神の御心にかなうことであり、たとえ途中で戦死しても魂は必ず天国へ行けると。そしてキリスト教徒は熱狂し、正規の十字軍が結成される前に民衆による十字軍までできました。でも全く統制がとれていなくて、ほとんどが戦死するか、捕えられて奴隷に売られてしまいました。
先生から借りた本で勉強しました。その後結成された第1回十字軍は確かにエルサレムを取り戻すことに成功しました。でもそこに行くまでの都市で虐殺と略奪を繰り返し行っています。そしてエルサレムではそこに住んでいた多数のイスラム教徒とユダヤ教徒を虐殺しました。教皇は十字軍は神の御心に沿うもので、そこに行けば天国へ行かれると保証しました。でも僕たちユダヤ人から見れば、十字軍は悪魔の軍隊です。
十字軍については私からも言わせてもらう。私の父は第4回十字軍に参加している。コンスタンティノープルを攻撃して東ローマ帝国を滅ぼした悪名高い第4回十字軍だ。教皇は最初同じキリスト教徒を攻撃したとして十字軍の戦士を破門したが、後に破門を解いて本来の目的地エルサレムに行くように促した。だが、領土を手に入れた戦士はそこに居座った。私の父もその1人だ。
『ローマ略奪』の時、教皇はサンタンジェロに逃げて無事でした。そして3年後、スペイン王カルロス1世は神聖ローマ皇帝カール5世になり、ボローニャで戴冠式が行われました。その時の教皇、クレメンス7世ですが、『ローマ略奪』の時何もできなかった教皇でも、戴冠式の時には民衆はありがたがっていました。教皇の体に触れれば罪が許され、地獄にいる期間が短くなると信じているからです。