ジャン・ド・モンフォール(1)
文字数 1,142文字
ジャン・ド・モンフォール(1294年頃ー1345年)はブルターニュ公国の貴族。ブルターニュ公アルテュール2世と2度目の妃ヨランドとの間に生まれ、母からモンフォール=ラモーリー伯爵位を継承した。ドルー家出身で、彼の子孫はモンフォール家として続いた。
母からモンフォール=ラモーリ伯爵位を継承したということは、2度目の妃ヨランドも立派な家柄ではないですか。ジャン3世が父とヨランドとの結婚を無効にしようとしたり、異母弟ジャン・ド・モンフォールを相続から排除しようとしたのはおかしいです。
1341年、異母兄であるジャン3世が男子をもうけないまま死去した。後継に名乗りをあげたのは異母弟であるジャン・ド・モンフォール、そしてジャン3世の同母弟の娘ジャンヌ・ド・パンティエーブルとその夫シャルル・ド・ブロワであった。シャルル・ド・ブロワはフランス王フィリップ6世の甥であり、王はもちろん甥を支持し、シャルルもフィリップ6世に臣従の誓いをしていた。
2派に分かれて争う戦争は、ブルターニュ継承戦争と呼ばれ20年続いた。この衝突はまた「2人のジャンヌの戦争」とも呼ばれていた。ジャンヌ・ド・パンティエーブルと、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌ・ド・フランドルの対立が表面化したからである。
リモージュに隠されていたジャン3世の宝物を首尾よく手中にしたジャン・ド・モンフォールは、支持者とともにナントを押さえ、1341年には少数のブルターニュ貴族たちから「公爵」であると認識されていた。公爵家の金庫を開け、彼はレンヌ、ブレスト、オーレー、カンペール、サン=ブリュー、ディナン、ヴァンヌを攻略するために傭兵たちを雇った。
シャルル・ド・ブロワはその後、1341年9月にコンフラン(現在のコンフラン=サントノリーヌ)での貴族裁判採決前に、王にモンフォールの召喚を訴えた。コンフランの決定で、ブルターニュ公は理論上はシャルル・ド・ブロワということになった。フィリップ6世は、リモージュ子爵領、フランス領内にあったモンフォール=ラモリー伯領を没収した。