カスティーリャ王ペドロ1世(2)
文字数 1,641文字
ペドロ1世の治世は、有力貴族を弾圧して王権強化策を取り、下級貴族の文官やユダヤ人を登用した。しかし、エンリケが1366年に国内の多くの不平分子を結集して武装蜂起した(第一次カスティーリャ継承戦争)反乱軍は、アラゴン王ペドロ4世やフランス王シャルル5世と同盟していた。
1337年からイングランド王国とフランス王国は100年戦争の渦中にあった。一連の戦乱の中、フランス王シャルル5世は、1365年にブルターニュ継承戦争では敗北するが、1369年にはフランドル女伯マルグリットを弟フィリップ(豪胆公)と結婚させてイングランドの勢力拡大を防いだ。シャルル5世は、フランスが劣る海軍力を持つカスティーリャに接近を図るため、フランス亡命中のエンリケを支援した。
1356年9月のポワティエの戦い以降、フランス王国は盗賊と化した傭兵の扱いが社会問題化しており、その解決策としてベルトラン・デュ・ゲクランに傭兵を率いさせ、カスティーリャ遠征を企図した。1366年1月に、カスティーリャ遠征が開始されると、ゲクランは3ヶ月で首都ブルゴスを陥落させて、エンリケを戴冠させた。
エンリケはすごく運がいいですね。ペドロ1世はフランス王族のブランシュを幽閉してフランスに恨まれていて、さらに100年戦争でフランスはカスティーリャと手を組みたいと考え、ゲクランとかいう化け物みたいに強い人が傭兵を使って首都を陥落させてくれた。自分が頑張って戦わなくても、結果としてエンリケの思い通りになっています。
イングランド王エドワード3世(1312ー1377)はイングランド王エドワード2世とフランス王フィリップ4世の娘であるイザベラの長男です。エドワード2世は議会で廃位され、その後王妃イザベラの命令で殺害されています。1337年にフランス王フィリップ6世がイングランド王のアキテーヌ公領を没収したのに対抗してエドワード3世が母の血を根拠にフランス王位を請求してフィリップ6世に宣戦布告したことが100年戦争の始まりとされています。
9月23日、ペドロ1世は領土の割譲を条件に黒太子とリブルヌ条約を結んだことから、ペドロ1世とエンリケの戦いは、英仏の代理戦争の様相を呈した。翌1367年4月3日、カスティーリャに帰還すると、グラナダ王とも結んだペドロ1世と黒太子はナヘラの戦いに勝利し、デュ・ゲクランを捕虜にした。しかしエンリケは敗走した。
アルフォンソ11世が王妃よりも愛妾を大切にしたためにペドロ1世と異母兄エンリケの争いが始まり、それぞれイングランドとフランスの支援を受けて大規模な戦争になってしまいました。個人の争いに国の利害関係が絡んだ戦争の中で残酷さが増し、勝利者となったエンリケがカスティーリャの王となりました。何かが根本的に間違っていても、もう引き返すことはできなくなってしまいました。