メアリー・オブ・ギーズ(6)

文字数 1,253文字

メアリー・オブ・ギーズについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
マリーはスコットランドに帰国したが、依然として情勢は安定せず、この年の11月にメアリーと王太子フランソワの委任を受けたラ・ボロス遠征隊が、ソルボンヌの神学者達数人を伴ってスコットランドに到着した。神学者達はスコットランドのプロテスタントと神学論争をするつもりで来たのだった。
スコットランドでは宗教が勢力争いと結びついてしまって複雑になっていますね。
すると、イングランドに援助を求めていた組合貴族達は、10月に会衆に加わっていたシャテルロー公(元アラン伯)を名目上の指導者にした。この月には、組合貴族達は一時エディンバラを占領し、マリー・ド・ギーズはスコットランドを征服するためにフランス軍を連れて来たのだから摂政を退くのが当然だと宣告した。1560年2月27日、ジェームズ卿を代表とするイングランドと、当時イングランドにいたシャテルローの代わりとして、北方の総督代理となったノーフォーク公を代表とする、プロテスタントのスコットランド貴族との間で、ベリク条約が締結された。イングランド貴族達は、スコットランド人のいにしえからの自由と独立を守り続けられるよう調停を務める、という名目でスコットランド入りし、マリーとフランス軍が占領していたリース城を包囲した、このため、1560年4月にメアリーとフランソワは、モンリュクト、ペルヴェンド、ブロスという3人の使者を遣わし、エリザベス1世と交渉をさせた。
同じプロテスタントでもイングランドとスコットランドでは始まりや教義が全く違うのに、この時は利害関係が一致して結びついたようです。
結果、1560年7月6日、エディンバラ条約が締結された。その内容は、イングランド軍とフランス軍の即時撤退、メアリーとフランソワのイングランドの紋章使用禁止というものだった。8月11日にスコットランド議会は、プロテスタントの信仰告白書を公表し、ローマ教皇の管轄権撤廃、カトリック教会の財産没収、ミサの挙行の禁止を決定した。なお、3回禁を犯したものは死刑とされることにし、こうして宗教改革が行われた。しかし、マリーはエディンバラ条約が締結される前に最後の賭けに出、ボスウェルにドイツで5000人の傭兵を募兵させ、デンマーク王フレゼリク2世に航海の援助を要請するため、デンマークにも派遣した。
ボスウェルだけが最後までマリーに忠実だったのですね。
スコットランドでの宗教改革がここまで極端になっていたということは知らなかったのでショックです。
しかし、カトリックの衰退を目の当たりにしながら、ボスウェルの帰りを待たずに、マリー・ド・ギーズは1560年6月11日に死去した。なお、この知らせを聞いたメアリーは、気がふれたのかと人々が心配するほど悲しみ、彼女がイングランドでの長い捕囚生活の末に処刑されるまで、ずっと母の肖像画を所持していたという。
次回からスコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスについて調べてみます。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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