メアリー・ステュアート(4)
文字数 1,279文字
1565年8月1日、マリ伯がエリザベス1世からの援助を取り付け、1200人の兵力を集めてメアリーに反乱を起こした。メアリーはこの反乱を鎮圧するため、ゴードン家にも恩赦を与えて地位を回復させた。マリ伯の期待していたイングランドからの援軍は現れず、スコットランド南部でボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗北し、彼はイングランドに亡命した。
7月29日にメアリーはダーンリー卿と再婚しているので8月1日のマリ伯の反乱はそのすぐ後になります。そしてマリ伯はボスウェル伯率いるスコットランド軍に敗れているので、ボスウェル伯に対して強い恨みを持ったと思います。
1566年3月9日、ホリールード宮殿で食事をとっている時、武器を手にしたルースベン・モートンなどの数人の貴族達がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室、しかもメアリーの目前で殺害するという事件が起きた。メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズ(後のイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世(6世))を出産した。リッチオの子だと噂する者がいたため、メアリーは床についたまま、ダーンリーの子であることを誓い、ダーンリーにも認めるように迫った。しかし、ジェームズが大きくなっても、ダヴィデ(デイヴィッド)の子を意味する「ソロモン」と呼ぶ者がいた。
私は王妃と彼女の寵臣に宮廷を牛耳られていましたが、だからといって王妃の不倫を疑う者はいませんでしたし、そのために殺人事件が起きるなどアラゴンではありえないことです。アラゴンの財政が傾いて私は不真面目王と呼ばれましたが、スキャンダルや殺人事件は起きていません。
ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に2人は結婚式を挙げた。当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はなかったが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。
間もなく、第4代モートン伯ジェイムズ・ダグラスら反ボスウェル派の貴族達が軍を起こした。6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降した。メアリーはロッホ・リーヴン城に移され、7月24日に廃位された。