カール4世(10)
文字数 1,238文字
カール4世はパリで養育を受け、若いころにイタリアの文人との交わりを持ったこともあって、5か国語に通じ、フランス語、イタリア語、ドイツ語、チェコ語を自由にあやつり、ラテン語で自伝を著しており、当時のヨーロッパにあって最も教養の高い君主であった。
カール4世はまた、自身のみならず、金印勅書第31条において、帝国は異なる複数の言語を用いる「諸国民」より構成される国家であるから、選帝侯の後継者たる者は7歳から14歳の間、ドイツ語のほか、ラテン語、イタリア語、チェコ語を習得すべしとの条項を入れた。
これはカール4世の願望であり、実現には移されなかったが、「国際的君主」「学者王」に導かれたプラハの宮廷にはヨーロッパ各地より学者や芸術家が招かれ、ドイツ・フランス・イタリアの文化が移植されて、当時のヨーロッパにおいて初期人文主義の一中心としての役割を担い、一方ではボヘミア文化が興隆したのであった。
カール4世は、中世後期のローマ皇帝の中でもきわめて個性的な統治を行った支配者であったが、その治世については歴史的評価が分かれている。金印勅書に関しても、これが国王選挙の際に対立王が出現する事態、すなわち諸侯の分裂によって二重選挙となる事態を回避して神聖ローマ帝国に秩序と平穏をもたらしたとして評価する立場と、神聖ローマ帝国における領邦分裂体制の固定を促してしまったと見なす立場がある。