ブルターニュ公ジャン5世(3)
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しかし一方でフランスとも繋がりを保ち、1418年9月に無怖公とアルマニャック派の仲介に奔走したが失敗した。それでも両者は交渉を重ね歩み寄りが見られたが、翌1419年に無怖公は暗殺されることになり、後を継いだ無怖公の息子フィリップ3世(善良公)はイングランドと結び平和は遠のいた。
1420年2月12日、ジャン5世の身に危機が迫る。オリヴィエ・ド・ブロワと母マルグリットに和解のための狩猟と称して呼び出されたジャン5世は末弟リシャールと共にパンティエーヴル領のシャントソー城に幽閉されたのである。
その際、満場一致でリッシュモンが頭目に指名されブルターニュ尚璽官ジャン・ド・マレストロワを長とする特命全権使節団がヘンリー5世と接触、ブルトン軍を指揮して国の正義を回復するため、リッシュモンを貸してもらえるように請願がなされた。請願は拒否されリッシュモンは捕虜のままだったが、マルグリットはシャントソーで武装した数千のブルトン人に包囲され降伏、7月にジャン5世を釈放した。