クレルヴォーのベルナルドゥス(5)
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クレルヴォー修道院自体もこの頃には、簡素さを好んだベルナルドゥスの意図と裏腹に「有名な院長」にふさわしい規模と内容に作りかえられていた。ベルナルドゥスの圧倒的な影響力はピエール・アベラールとの論争において明白となる。1140年のサンスでの宗教会議では、当代随一の学識で売り出し中だった気鋭の学者アベラールも、年下のベルナルドゥスの前ではかたなしであり直接討論中に退場する。結局、アベラールは有罪宣告を受けることになる。
ベルナルドゥスが有名になったことで、シトー会も大発展をとげた。1130年から1145年の間に、少なくとも93の修道院がシトー会に加入あるいは新設された。修道院の地域はイングランドやアイルランドにまで及んだ。1145年にはシトー会出身の修道士のローマ近郊のアクエ・シルヴィエの院長であったベルナルド・パガネッリが教皇に選ばれ、エウゲニウス3世を名乗った。このことはヨーロッパにおけるベルナルドゥスの影響力が頂点に達したことを示す出来事であった。
教会分裂の収拾を達成したベルナルドゥスが次に要請されたのは、異端との戦いであった。アルビジョワ派が当時異端として世間を騒がせていた。特にローザンヌのアンリという説教師の名前が知れ渡っていた。1145年6月、オスティアのアルベリック枢機卿の招きによってベルナルドゥスは盛んに説教を行い、異端の影響力が及ぶのを食い止めるのに成功した。