ブルターニュ継承戦争(3)
文字数 1,244文字
イングランド軍のカレー侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これによりモンフォール派の離脱が相次ぐようになった。
1342年11月にエドワード3世はブレストに到着し、ヴァンヌを包囲したが、1343年1月にローマ教皇の仲裁によりフランス王と停戦し、ヴァンヌは教皇の保護下に入った。停戦の結果として1343年9月にジャン・ド・モンフォールは釈放されたが、東部の領地に留まることを強制されており、その影響力は弱く、ヴァンヌを奪ったがモンフォール派の離脱が続いた。
1344年3月、ブレストとヴァンヌの連絡を絶つためにシャルル・ド・ブロワはカンペールを包囲し、5月に陥落させたが、その時1400から2000人といわれる住民を虐殺した。守備兵のうち、イングランド兵は身代金のために捕虜とされたが、ブルターニュとノルマンディの兵はパリに送られ、叛逆者として処刑された。
第4回十字軍では同じキリスト教徒の国を襲って住民を虐殺している。1度こういうことがあって教皇がその罪を追求しなければ、戦争の時人間はますます残酷になり己の利益を追求するようになる。キリスト教はもはや人間の残酷さを止められなくなっていた。
1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を図ったが失敗し、間もなく病死した。これによりわずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的にロンドンからの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。