ジェームズ1世(イングランド王)(17)
文字数 996文字
1618年に勃発した三十年戦争において、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世はその当事者となったが、1621年には完全に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世側に押され、オランダに亡命する事態になっていた。そのためジェームズ1世は娘夫婦を援助する取り組みを行い、7年ぶりに議会を開き資金を集めようとしたが、議会の強い反対によって実現しなかった。この時中心的に動いた人物としてベーコンがおり、それが故に彼は失脚の憂き目にあう。
三十年戦争については、ドイツにおけるプロテスタントとカトリックの対立、オーストリア、スペインのハプスブルク家とフランスのブルボン家との抗争を、オーストリア領ボヘミアの新教徒が神聖ローマ帝国に対して反乱(プラハ窓外放出事件)を起こしたことに端を発した、と書いてありました。
議会は初め14万5000ポンドの特別税徴収を認めたが、ジェームズ1世が提案したプファルツへの援軍派遣による追加予算を認めなかった。独占権の濫用による商業の専売が問題になりバッキンガム侯が独占権関与で議会から追放される恐れが出ると、ジェームズ1世は事態収拾に動き一部の業者から独占権を取り上げ、バッキンガム侯の非難をかわすため議会によるベーコンの収賄容疑の弾劾を受け入れ、彼をスケープゴートにして失脚へ追い込んだ。その後外交問題が議題に上がると、外交が国王大権のためスペインとの戦争を主張する議会に激怒して反対、議会の大抗議を発表して言論の自由を盾にして尚も食い下がる議会に更に腹を立て、議会を解散して大抗議の首謀者であるコーク、ジョン・ピムらを投獄した(ピムは自宅軟禁で済んだとも)