ティコ・ブラーエ(16)
文字数 1,063文字
ウラニボリにおいて、ティコ・ブラーエはヨーロッパ中の科学者や天文学者との文通を継続していた。彼は他の天文学者の観測結果を問い、また彼らがより正確な観測を行えるように自身の技術進歩を共有した。故に彼が持っていた交流関係は彼自身の研究にとって重要であった。こうした文通はしばしば、学者たちとのプライベートな関係のみではなく、観測結果を広める手段であり、進歩と科学的合意を築くためのものであった。
文通を通じて、ティコ・ブラーエは彼の理論に対する批判者たちといくつかの個人的な紛争に関与した。批判者たちの中で著名な人物にはアリストテレス的世界観の権威を強く信奉するスコットランド人の医師ジョン・クレイグ、プラハの宮廷に仕える天文学者でウルシスの別名で知られるニコラウス・ライマース・ベアがいた。ニコラウス・ライマースはティコが彼の宇宙論モデルを剽窃したと非難した。クレイグは1577年の彗星が地球の大気圏中ではなく、天球の中の現象であるというティコの結論を受け入れることを拒否した。
クレイグはティコの方法論に疑問を呈し、自身の彗星観測結果を使用してその矛盾を突こうと試みた。これに対し、ティコ・ブラーエは自身の結論の『apologia』(弁護)と題する出版を行い、その中で追加的な議論を行うとともに、クレイグの考えの無能を主張する強い言葉で非難した。
別の議論は数学者ポール・ウィチシュとのものであった。彼は1580年にヴェン島に滞在した後、カッセルのヴィルヘルム4世と彼のお抱えの天文学者クリストフ・ロスマンに、ティコの観測器具のコピーの作り方を、ティコの許可を得ることなく教えた。次いでウィチシュと共に学んだクレイグは、ティコが使用しているいくつかの三角法の理論の開発に対するウィチシュの役割を、ティコが不当に過小評価していると非難した。ティコ・ブラーエはこれらの紛争を処理するにあたり、出版および議論と自身の回答を広く普及させることで、科学コミュニティの支持を確実なものとした。