コンピエーニュ包囲戦(2)
文字数 1,468文字
ジャンヌは3月にはすでに危険を感じて準備を進めていたが、前年9月のパリ包囲戦の失敗を理由に軍の指揮を認められていなかった。そこで、4月までに300人~400人の志願兵を集め、国王には知らせずにコンピエーニュに向い、5月14日に到着した。
23日、ジャンヌはコンピエーニュの守備隊と協力し、城の北側のマルニーにあるブルゴーニュ軍の駐屯地に奇襲をかけようとした。ところが、リニー伯がたまたまこの地域を偵察中にこの動きに気付き、秘かに本隊から援軍を呼び寄せていた。フランス遭い軍の奇襲はブルゴーニュ軍6,000の反撃に遭い、ジャンヌはコンピエーニュの城に退却を命じつつ自身は殿軍に立った。
もしジャンヌがシャルル7世には内緒でコンピエーニュに少数の志願兵と一緒に行くということがなかったら、もしリニー伯に気付かれなければ・・・いろいろな可能性があったはずなのに、結局ジャンヌが捕虜になるという最悪の結果になってしまいました。
ブルゴーニュ軍がジャンヌらと共に城内に乱入することを防ぐための、守備隊の合理的な判断だったのか、それとも裏切りだったのかについては諸説ある。ブルゴーニュ軍に囲まれたジャンヌはそれでも戦い続けたが、1人のブルゴーニュ弓兵がジャンヌの上着を掴んで馬上から引きずり下ろした。ジャンヌはその場にいたリニー伯の従者のライオネルに降伏した。
ジャンヌを捕虜にしたリニー伯は居城に彼女を連行した。リニー伯の主君のフィリップ3世がジャンヌの身柄をイングランド軍に引き渡すように求め、その後ブルゴーニュ公領のアラスに移送され、結局1万リーブル・トゥールノワの身代金でイングランド側に引き渡された。シャルル7世はジャンヌの身柄引き渡しに介入しなかったため、後世彼女を見殺しにしたと批判されることになる。ジャンヌは異端審問を受けた後、異端の罪をおかしたとして、1431年5月30日にルーアンで火刑に処された。
コンピエーニュ包囲戦でジャンヌを捕らえたのはリニー伯、イングランドに引き渡したのはフィリップ3世で彼女を異端審問にかけ処刑したのはイングランド軍、これだけはっきりわかっているのに、なぜシャルル7世が批判されるかわからないです。介入しなかったのではなく、できなかったのです!イングランドに引き渡されてしまえば、もうどうすることもできません。