ジェームズ1世(イングランド王)(13)
文字数 1,117文字
1606年には、北アメリカ海岸に植民地を建設する目的で、ジェイント・ストック・カンパニーのバージニア会社に勅許を与え、本国のバージニア委員会を通じて経営を行った。ジェームズタウンの建設を進め、ロンドンからの移住者が中心になりイングランド人の植民地建設が進んだ。1620年のピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)によるメイフラワー号も有名である。
エリザベス1世時代に敵対していたスペインとはソールズベリー伯の主導で1604年のロンドン条約で和解した。これには、スペインとフランスの調停者としての役割がジェームズ1世に期待されたからで、国王も期待に応え、調停者であることをアピールした。
だが、その一方で私鯨船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国に対してはキリスト教徒としての観点から敵意を抱いて断交を決め、重臣や東方貿易に従事する商人たちからの猛反対を受けた。最終的にジェームズ1世が妥協して、従来国家が負担していた大使館などの経費を全て商人たちに負担させることを条件に、オスマン帝国との国交は維持することになった(この時期の貿易は、イタリア・ヴェネツィア商人を通じて、オスマン帝国、さらに東南アジアとのスパイス貿易がメインだった)
ただ、東方貿易と同じ東南アジアに向かう東インド航路の開拓を進めた(1600年、エリザベス1世時代に東インド会社が設立されたが、当時はスペインと和平交渉は成立していなかった)1613年にはジャワ島のバンテンに商館を持っていて、日本にいる三浦按針から手紙を貰い、東インド会社第二船団に乗っていたジョン・セーリスが日本に行き、徳川家康・秀忠親子と交渉して、平戸にイギリス商館を築いている。
また、秀忠からは鎧などを贈られ、これは現在もロンドン塔に現存する。ジェームズ1世はこれにより日本に興味を持ち、セーリスの航海記を5回も読むほどだったらしい。日本の工芸品などで初のイングランド国内オークションなどが行われるが、日本は基本的に東南アジアのスパイス貿易のサブ(東南アジアのスペイン・ポルトガル船襲撃や布製品の売り付けなど)だったため、1623年のアンボイナ事件以後、オランダとの関係悪化で東南アジアからインド貿易にシフトしていく(日本のイギリス商館も1623年に廃止された)