ヤン・ジシュカの生涯(2)

文字数 1,475文字

ヤン・ジシュカの生涯についての続きです。作品集には下の画像から入って下さい。
1415年、フスが異端の罪で火刑にされると、ローマ教皇や時の神聖ローマ教皇ジギスムントに対して反感を強めたフスの信奉者(フス派)を率いてカトリック派を攻撃(1419年のプラハ窓外投擲事件にも関わっていたとも言われる)ヴァーツラフ4世の死後、ジギスムントがボヘミア王に即位するとこれに反抗してフス戦争を引き起こした。
コンスタンツ公会議の時、ジギスムントはフスの命を助けようとしていたし、教皇ヨハネス23世は逃げ出すという状況でした。結局ヤン・ジシュカやフス派の人は公会議の様子やフスの思想についてきちんと学ぶよりも、ただ反発して過激になっているように思います。
1420年、迫害を逃れてきたフス派の民衆をボヘミア南部の山中に集めて城塞都市ターボルを建設し、フス派の中でも急進派といわれたターボル派を結成した。ジシュカが作り出したターボル派の軍は、信仰に基づく厳格な軍規とマスケット銃や戦車などの新兵器によって無類の強さを発揮し、ジギスムントの神聖ローマ帝国軍やフス派撲滅のための十字軍も、ジシュカの前に何度も大敗を喫した。
これはフス派の戦車を再現した写真です。
フスは当時の教会の腐敗(教会分裂や贖宥状の売買など)を批判し、聖書をきちんと読んで信仰の在り方を考えていこうとしたと思います。それがフス派という名前でどうしてここまで過激になってしまうのかよくわからないです。
フス派内部には、聖書原理主義に立つアダム派のような過激な急進派から、カトリックとの宥和をはかる富裕層を中心とした穏健派まで、様々なグループが混在した。
アダム派というのは、アダムとイブの原始的な無垢さを取り戻す事を目的に2世紀に始まりました。そのアダム派が中世ヨーロッパで復活し、ボヘミアではターボル派からの離脱者がアダム派となりました。排他的な結婚を罪と考えて一夫一婦制を否定して自由な愛を規則とし、また儀式だけでなく町や村でも裸で生活するようになりました。
随分極端な宗派とくっついていますね。こうなるともうフスの考えとは全く違います。
1421年、フス派指導者のヤン・ジシュカはこのアダム派共同体をほとんど皆殺しにしました。
フス派が力を持つほどに治安は悪化し、またターボル派の厳しさに我慢できなくなった人はアダム派のような極端な考えに染まってますます争いは激化する、地獄のような光景になっています。フスが望んだのはこんなことではない、酷い状況です。
ジシュカ自身も1423年ターボル派から距離を置いてオレープ派を結成した。ジシュカは内部の争いに苦慮したが、強大な軍事力を背景として諸派を統率した。
結局力づくで無理にまとめてしまったのですね。
1424年には穏健派との戦いに勝利し、全フス派の事実上の指導者となった。しかし同年、モラヴィア遠征中にペストにかかり、間もなく死去した。ジシュカを慕うフス派の兵士たちは自らを「孤児」と称し、ジシュカの戦術を継承してフス戦争を戦い続けた。
ヤン・ジシュカはフス派を名乗りながら結局はフスの理想から大きく離れ、ボヘミアに混乱を招いたように思えます。なまじ軍事力とカリスマ性があったから簡単には負けない、そして多くの人を殺しています。ジシュカがやったことはフスやキリストが望んでいたことではない、宗教の改革を望み、フスに心酔して純粋な信仰心があったからこそこのような方向に進んでしまった、宗教改革は簡単なことではないです。そして僕たちの生きた16世紀はもっと激しい争いがあります。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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