ジギスムント(3)
文字数 1,213文字
ニコポリスでの大敗によってジギスムントの威信は地に落ち、ジギスムントに対する不満が高まった。ハンガリーに帰国したジギスムントはニコポリス十字軍の敗因を国内の旧弊にあるとみなし、改革を行った。改革の最大の課題は大貴族への対策である。既にラヨシュ1世の時代に大貴族は勢力を増し、ジギスムントの王領、王城の半数を蚕食するなど、その勢いはとどまることがなかった。
しかもニコポリスでの敗北を機に、大貴族の一人ラツクフィ・イシュトヴァーンはジギスムントに代えてラディズラーオを王位に就けようと画策していた。陰謀は寸前で阻止されたが、大貴族の勢力は侮り難いものになっていた。
余もヤン・ネポムツキーを殺害する事件を起こして上級貴族とヨープストが扇動した反乱が起こり、ヨープストに捕らえられて監禁され、数か月後に末弟ヨハンの尽力で釈放された経験がある。監禁されたり人質になってもうまく生き延びた経験なら、余も異母弟ジギスムントに負けないくらいある。
その後、信奉者によってジギスムントは救出され、謀反者たちに寛大な処置を取ることで人望を獲得していった。翌1402年、ジギスムントは後継者としてハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト4世を指名したが、大貴族の一部(特にアンジュー派貴族)が反乱を起こし、またもラディズラーオを推戴しようとした。反乱を鎮めたジギスムントはここでも寛容を示し、大貴族を掌握することに成功した。
ニコポリスの戦いにも参加しているし、反乱も鎮めている。ここにいる怠慢王や不真面目王に比べ、ジギスムントは個人的に戦闘能力も高かったに違いない。アラゴン王家は勇敢な戦士が多いのに、ここに集まった亡霊は余以外は弱い者ばかり、いっそうのことジギスムントを仲間に入れたくなった。