ニコラウス・コペルニクス(6)
文字数 789文字
ニコラウス・コペルニクスについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。
コペルニクスは最後まで地動説について出版する考えはなかったのですね。
しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。
クレメンス7世はメディチ家出身でレオ10世の従弟、1527年にローマ略奪がありましたが、芸術・文化のパトロンで枢機卿時代からラファエロを引き立て、コペルニクスの研究も支援していました。
1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を勧めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。
カトリックの者すべてが地動説に反対したわけではなくて、この頃は教皇や枢機卿、聖職者の友人にもコペルニクスの考えを認める者がいた、それでも彼は出版しようとは思わなかったのですね。
1539年、ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。
弟子が出来て、ようやくコペルニクスも出版について真剣に考えるようになったようです。
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