ブルターニュ公ジャン5世(5)
文字数 1,139文字
1431年になり、再びヨランドがジャン5世をフランス側へ戻すべく交渉を開始した。この交渉に携わったのはヨランドの老臣ジャン・ド・クランと孫のジル・ド・レで、ブルターニュとフランスは2月に和平を結び、8月にジャン5世の長男フランソワとヨランドの同名の娘ヨランドが結婚、翌1432年にブルターニュとフランスの間で同盟が結ばれ、ジャン5世はフランスとの協力態勢に戻った。
でも、当時の私はまだ40代で子供も生まれていたので、まだまだ男の子が生まれると信じていました。それに万が一の時は弟のマルティンがアラゴンを継いでくれればいいと・・・マルティンには子のマルティーノもいたので、ビオランテをアラゴンに残すことは考えていませんでした。
1433年に宮廷に復帰したリッシュモンがヨランドと協力してクーデターを敢行し、ラ・トレモイユを追放、宮廷の主導権を握ったため、以後フランスはブルゴーニュとも和睦、対イングランド戦略で領土回復に邁進していった。
だが、ジャン5世はブルターニュにあるジルの領土を欲しがっていたため、構わずジルと売買交渉、1435年と1437年に土地を購入した。ラヴァル家は憤慨してジルの領土を攻撃し始め、アンジュー公ルネ・ダンジューも介入して来るに及んで、不安に駆られたジャン5世はジルを懐柔すると共に、調停に乗り出したリッシュモンの仲介を受け入れ1438年に紛争は収まった。