ティコ・ブラーエ(4)

文字数 1,250文字

ティコ・ブラーエについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
6歳から12歳まで、ティコはラテン語学校(おそらくニューケビンにあった)に通った。1559年4月19日、12歳の時、ティコはコペンハーゲン大学で学業を始めた。そこで彼はおじの希望に沿って法学を学んだが、他の様々な分野も学び、天文学に興味を持つようになった。
12歳で大学で学ぶというのはかなり早いです。
コペンハーゲン大学ではアリストテレスが科学理論の基盤であり、ティコも恐らくアリストテレス物理学と宇宙論(cosmology)を学んだであろう。
この時代もまだ大学で学ぶ科学はアリストテレスが権威となっていたのですね。
ティコは1560年8月21日の日食の瞬間に立ち会った。当時の観測データに基づく予測ははずれていたが、彼は予測が実施されたこと自体に大きな感動を覚えた。ティコはより精密な観測がより正確な予測を行うための鍵であると認識した。彼は天体暦とヨハネス・ド・サクロボスコの『De sphaera mundi』、ペトルスアピアヌスの『Cosmographia seu descriptio totius orbis』、そしてレギオモンタヌスの『De triangulis omunimodis』などの天文学書を購入した。
ちょうど13歳の時に日食を体験したというのが凄いです。この体験が彼の人生のもっと前か後だったら彼の人生は違っていたでしょう。
しかしヤアアン・ブラーエはティコが公僕の道へ進むべく学ぶことを望み、1562年初頭に彼をヨーロッパへ留学の旅へ送った。15歳のティコの指導教師として19歳のアナス・サアアンスン・ヴィーゼルが当たったが、ティコは結局この留学中にヴィーゼルに天文学を探求する許可を求める。ヴィーゼルとティコは1562年にコペンハーゲンを離れた。3月24日、彼らはライプツィヒを訪れ、ルター派のライプツィヒ大学に入学した。
ライプツィヒ大学は、神学者のヤン・フスらによるチェコ人優遇政策に抗議してプラハ大学を一斉に去ったドイツ人教員や学生を受け入れるためにマイセン辺境伯フリードリヒ4世が1409年に創立しました。ドイツではハイデルベルク大学(1386年に創立)に次ぐ歴史と伝統を持つ大学です。
プラハ大学にヤン・フスがいた頃は余が統治した時代と重なる。余はヤン・フスを支援していた。
1563年、彼は木星と土星の合を観測し、この合を予測するために使用したコペルニクスとプトレマイオスの天文表が不正確であることに気付いた。このことで彼は天文学の発展には体系的かつ精密な観測を、当時入手可能な最も正確な器具を用いて毎晩行う必要があると悟った。彼は自身の全ての天文観測記録を詳細に記録し始めた。この時期、彼は天文学の研究と占星術を組み合わせ、各著名人のためにホロスコープを設置した。
若い時にコペルニクスやプトレマイオスの天文表が不正確であることに気付き、精密な観測の必要性を悟って生涯それを続けたというのが凄いです。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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