クレルヴォーのベルナルドゥス(4)
文字数 1,031文字
1133年になると神聖ローマ皇帝ロタール3世は兵を率いてローマを目指し、ベルナルドゥスは教皇の意図を受けてジェノヴァとピサの同盟を成立させた。ローマにいたアナクレトゥス2世はサンタンジェロ城を擁し、シチリア王の後ろ盾を持っていたが、ロタール3世の兵力の前にしぶしぶインノケンティウス2世との対話に応じることになった。
ローマではロタール3世はインノケンティウス2世から王冠を受けることができたが、ホーエンシュタウフェン家との争いがあったため、自身の威光を高めることができなかった。ベルナルドゥスが再び召喚され、説得に向かったことで、1135年春にホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世はロタール3世との和解に応じ、臣従を約束した。
6月に入るとベルナルドゥスはイタリアにやってきて、ピサ教会会議を主導した。そこにおいて対立教皇アナクレトゥス2世を破門に追い込むことに成功した。北イタリアではベルナルドゥスの影響力は絶大となっており、ミラノとロンバルディアの諸都市もベルナルドゥスの説得に応じてロタール3世とインノケンティウス2世への臣従を約束した。
ベルナルドゥスのような人物がいたからこそ、利害関係のある諸侯が説得に応じているのですね。ハインリヒ7世が生きた時代は教皇と皇帝の争いがさらに激しくなり、ハインリヒ7世は教皇にそそのかされて父である皇帝に対して反乱を起こしてしまいました。
1137年、ロタール2世の最後のローマ訪問に伴ってベルナルドゥスもイタリアへ戻り、モンテ・カッシーノでベネディクト会内の問題の解決にあたり、サレルノではシチリア王と破門された対立教皇アナクレトゥス2世の離間を狙ったが、これは果たせなかった。アナクレトゥス2世は1138年3月13日になくなったが、支持者たちは次の対立教皇を擁立した。これがウィクトル4世である。しかしベルナルドゥスの長年の運動の結果、対立教皇は支持基盤の多くを失っており、自ら退位し、ここに教会分裂は収拾、ベルナルドゥスもようやくクレルヴォーに戻ることができた。