フィリップ4世(5)
文字数 1,244文字
ボルドーの大司教であった新教皇クレメンス5世は、当初からフィリップ4世の強い影響下にあり、その登位もフィリップが臨席した上でリヨンにおいて行われた。クレメンス5世は、一度もローマに入ることなく1309年、ローマ教皇庁をフランス南東部のアヴィニョンに遷した(アヴィニョン教皇庁)アヴィニョンは当時ナポリ王国の所有する都市であったが、フランスの強い影響下にあり、これを歴史上「アヴィニョン捕囚」と呼んでいる。以後、約70年間、教皇庁はアヴィニョンにあって、教皇権はフランス王の強い影響下に置かれることとなった。
教会大分裂はこのことが原因となっているのですね。教会大分裂の時、アラゴンの大貴族ルナ家出身のベネディクトゥス13世が対立教皇に選ばれていました。もし教会大分裂がなくて普通に教皇に選ばれていたら、カスペの妥協でベネディクトゥス13世は別の人をアラゴン王に選んでいたと思います。
1307年10月13日に、フランスに呼び出したテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーを含むフランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕した。拷問による異端審問を行った後、教皇クレメンス5世に働きかけ、テンプル騎士団を解散させ、フランス国内の資産を没収した。1314年にはモレーら騎士団の最高幹部を異端として火刑にした。
僕は昔、ラミロ2世とペドロ2世に頼まれてテンプル騎士団のことを調べたのですが、異端審問や火刑のことを知って物凄いショックを受けました。そしてフィリップ4世は残虐非道な王だと思いました。今はその前のボニファティウス8世との争いやアナーニ事件、教皇のアヴィニョン捕囚なども知ったので、その流れからテンプル騎士団も狙われたのかなと納得しました。もちろんフィリップ4世がしたことは酷いことですけど・・・
火刑の際、モレーはフィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いの言葉を発したといわれる。同年、フィリップ4世は狩りの最中に脳梗塞で倒れ、数週間後に生誕地のフォンテーヌブロー宮殿で崩御した。同年にはクレメンス5世も世をさっている。
遺体はサン=ドニ大聖堂に埋葬されている。