ピエール・コーション(2)
文字数 1,053文字
1429年5月にジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放し、7月にはシャルル7世をランスに導いた際、コーションは聖体祝日の行列に参加するために直前までランスに滞在していたが、フランス軍の接近を聞いてボーヴェへ逃げ帰った。しかしボーヴェ住民がイングランド人とブルゴーニュ派の追放を開始したため、さらにルーアンへと逃れる羽目となった。
1430年5月にコンピエーニュでジャンヌがブルゴーニュ派の捕虜になった。コンピエーニュはボーヴェ司教の管轄であり、コーションはその資格に基づいてイングランドが彼女を買い取れるように尽力し、さらに自分を裁判長とする異端裁判に彼女をかけることに成功した。
ベッドフォード公の意向でジャンヌの異端裁判はルーアンで行われることになった。1430年12月にコーションはルーアン教会参事会からルーアン大司教(当時空席)の管轄内で裁判を行う権限を認められた。そして1431年1月にヘンリー6世の書簡でジャンヌの身柄はコーションに引き渡された。ただしこれは様々な条件付きだった。イングランド側が要求したときはいつでもジャンヌの身柄をイングランド側に返さなければならず(これによりジャンヌはこの後も教会ではなくイングランド軍の牢に繋がれた)、またもしコーションの宗教裁判が彼女に有罪判決を下さなかった場合はイングランドは独自の判断により彼女を処断することも付記されていた。要するにイングランドはコーションに有罪判決を下すよう強制していたのだった。